LET'S GO TO THE NEXT STAGE 資格で開いた「未来」への扉 #32
中島 未宇人(なかじま みうと)氏
1986年生まれ。東京都品川区八潮出身。私立巣鴨中学校・高等学校卒。法政大学工学部経営工学科(当時)卒。新卒で入社したIT企業では、数千社に電話営業、数百社に飛び込み営業をして営業のノウハウを身につける。「この営業ノウハウがあれば士業としても強みになるはず」という思いから社会保険労務士をめざすことに。合格後は母の立ち上げた社会保険労務士事務所に入所。キャリアコンサルタントの資格も取得して事業の幅を広げ、「スピード感のある仕事」をモットーに年商1億をめざしている。
【中島氏の経歴】
2007年 20歳 経営工学の分野に興味を持ち、法政大学の工学部経営工学科(当時)に入学。
2012年 25歳 東日本大震災の影響で求人が激減する中、IT企業に入社して営業部に配属。「プログラミングのわかる営業」として活躍する。
2015年 28歳 IT企業退職後、自分の未来に不安を抱える中、両親と同じく「国家資格を取る」ことを決心。TACに通学し社会保険労務士をめざす。
2018年 31歳 社会保険労務士試験に合格。両親の経営する事務所に就職する。今までの挫折や失敗の経験も活かしながらさらなる活躍をめざしている。
無駄だと思っていた人生の失敗や挫折が、
資格によって活かされてくる。
同世代から3年も遅れた自分を資格が変えてくれた。
「人間には“無駄”が必要なんだ」。2020年に惜しまれつつも亡くなった稀代のエンターティナー志村けん氏が遺した言葉である。本来「無駄」という言葉は「役に立たないこと」、「不要なもの」という意味だ。しかし、それが「必要」だとはどういうことなのだろうか。その答えを、現在、社会保険労務士・キャリアコンサルタントして活躍する中島未宇人氏の生き方に見ることができる。無駄と思えた人生の失敗の数々が、資格で活きてくる氏の経験に注目してほしい。
アニメ・ゲームに熱中した学生時代
京都品川の八潮団地が中島氏の生まれた家だった。1984年のバブル期の終わりあたりに建てられた団地で、周辺には京浜運河に沿って約2.5km続く都立の緑道公園があるような自然豊かな環境で育った。しかし幼少期から小児ぜんそくがあり、入院することもあった中島氏は、自然の中で体を動かすよりも家にこもってゲームをするほうが好きだった。熱中しすぎて両親に取り上げられたこともあったほどだという。一方で、小学1年生からぜんそくを克服するために医師に勧められた水泳を始め、その効果でぜんそくはいつの間にか治っていた。特にこれといった部活動はしていなかったものの、小学5年生になるまで続けた水泳で基礎的な体力をつけつつ、中学受験のために塾へ通い続ける小学生時代だった。勉強の甲斐あって、大塚にある中高一貫校の進学校である巣鴨中学校へ進学が決まった。
「進学校でしたが私はあまり勉強に力を入れていませんでした。バスケットボール部に所属しましたが、特に強いチームでもないのに万年補欠組。勉強はできない、スポーツもダメ。いいところなしですね」
中学では熱中するものを見つけられずにいた中島氏だが、中学2年生のときに偶然行った秋葉原でアニメとパソコンのおもしろさを知る。パソコンで情報を集めてはグッズを求め、コミックマーケット(世界最大規模の同人誌即売会)にも足を運んだ。
中高一貫校であったため、そのまま巣鴨高校へ進学。高校へ入ると今度はカードゲームに夢中になった。「デッキ」と呼ばれる組み合わせたカードの束を持ち寄り、2人以上で対戦を行うトレーディングカードゲームである。このゲームで強くなるには、戦術を練る作業が必要で、限られた条件の中で、どの戦術が流行っているのか、流行っている戦術の中でどの戦術が強いのかを、情報を収集してデータとして把握しておくことが必要だという。
「データを分析して、戦術を練り、実行していく。そのプロセスがおもしろくて夢中になりました」
ところが熱中のあまり、またしても勉強が手につかない。成績は悪化し、高校2年生のときに留年が決まった。
「留年したのは、学年で200人ほどいた中の10人余り。自分で蒔いた種だということはわかっていましたが、絶望感に襲われました」
情報を分析して答えを見出す経営工学が自らの進み道を示し始める
その後、中島氏はさらに大学進学でも1年浪人し、やっとの思いで法政大学の工学部経営工学科(当時)に進学する。
「カードゲームで勝つために試行錯誤していく中で統計学に興味を持ちました。データを集めて統計を取れば、天才の考えるような手法を見出すことはできなくても、一般的なことなら最適な解答にたどり着くことができるはずだと思ったのです。そこで調べてみたら経営工学という学問があって、自分が興味を持っていることを学べると知りました。情報をシステム化して大量のデータを取得し分析すれば、どんな仕事も効率化を進められて、より少ない労力で成果を上げられ、人生が豊かになっていくのではないかと思ったのです」
そして大学入学後は勉強の傍ら、同人誌の制作販売にも精を出すようになる。大学の授業で知り合った友人が描く絵を印刷して製本し、それを売って利益を出すのがおもしろかった。興味を持ってもらうにはどうすればいいか、そしてどうすれば実際に買ってくれるのか売り方や宣伝の方法もあれこれ工夫した。その友人は、これをきっかけにプロをめざし、現在はソーシャルゲームのイラストレーターとして活動しているという。そして対する中島氏は、この経験がきっかけで経営に興味を持ち始めたのだった。
しかしここでもまた夢中になりすぎたことが原因で勉強に身が入らず、1年にして必須科目を落として留年。わずか数人の中のひとりだった。
「ただサボっていただけ、と言われても仕方のない状況でした。ただ、高校のときとは違い、今回の留年はただの無駄に終わらせないで、何かその後に人生にとって役に立つものにしなければいけないと思いました」
意識を変えた家業での就労経験
その頃、母は社会保険労務士(以下、社労士)として「中島労務管理事務所」を創業しており、父も公務員としての仕事をやめ社労士の資格を取って夫婦で一緒に事務所を経営していた。そんな両親の仕事をなんとなく理解し始めたのも大学へ進学した頃からだった。そんな折、大学2年のときに父が病気に倒れ、中島氏が家業を手伝わなくてはならなくなる。社労士とはどのような仕事なのかを調べ、理解することから始まり、母が苦手な給与計算システムなどの運用をサポートした。自分にできるのかというプレッシャーがあったが、秋葉原通いで身につけた知識と経験から、パソコンやシステムにはまったくアレルギー反応がなかった。
「それでも、クライアント企業の給与計算などが仕事として眼前に迫ってくるわけです。給与の支払いを止めてしまうわけにはいきませんから、誰も数値入力する人がいなければ自分でやるしかない。もう、OJT(実際の職務現場で業務を通して行う教育訓練)のレベルを超えて、現場で調べながらこなして身につけていくといった感じでした。それまではどうしようもないダメ学生だったわけですが、真剣にならざるを得ない。このことを境に『ちゃんとしなければ』と意識が変わりました」
そんな経験を経て迎えた大学の最終学年。当時の就職戦線は、2011年の東日本大震災の影響を受けて求人は激減。そして、中島氏には「同期より3年も遅れている」という大きなハンディキャップがあった。不採用通知を受け取るたびに、過去の自分を悔いた。
そんな中、年末になって大学のキャリアセンター経由で応募していたあるIT企業の選考に残った。自分の専門は経営工学なのでプログラミングも学んでいるし、きっとSE(システムエンジニア)として採用されるのだろうと思っていた。
「ところが、新人の懇親会で社長や役人の方々と会ったとき、お前は営業へ行けと言われたのです。プログラミングの経験がない文系出身の同期たちがSEを任命される中、なんで私がと思いました」
営業職にプログラミングを熟知した人材が求められていたことや、懇親会で見せた人懐っこく、信頼できる様子も経営陣に買われたのだろう。任されたのは、ほぼ飛び込み営業。主に販売管理に関するシステムを、リース品の契約期間切れのタイミングを狙って営業する。受注金額は一千万円から数億円におよぶ。営業対象の中小企業では、簡単には捻出できない金額である。中島氏は苦戦し、2年間で1件ほどしか数字を計上することができなかった。売上が立たない焦りと絶望感に襲われる中、さらに2年目に入ってきた後輩が数字を上げてきたということを耳にすると、悲壮感にすら苛まれることになった。
「自分には向いていない。もう、ダメだと思いました。砂漠を旅していて、みんなはオアシスを見つけられるのに、自分だけが見つけられない。やがて行き倒れていく自分が目の前に見えました」
また、無駄をしてしまった。そんな思いで、中島氏はIT企業を退職した。
自分のどこに勝ち目を見出すか不安の中で見つけた“資格”という回答
同級生と並んで胸を張って「自分は社会の中でこれをやっている」と話せることが何もない。同窓会でみんなに会ったとき、何と言えばいいのか。
「何もない自分が、信用を得て裸一貫で戦うにはどうすればいいのかと考えました。こんな自分のどこに勝ち目を見出せるのかと。そんなときふと両親のことを思い出し、国家資格を取るという選択肢が思い浮かんだのです」
士業の業界には営業力が高い人はあまりいない。だから自分の営業力があれば、仕事を広げていくことができるのではないか。IT企業で飛び込み営業や電話セールスをしてきたノウハウが、今度は自分のために活かせるはずだ。約400万社ある日本の企業の中で社労士が関わっているのはわずか3割と言われているのだから、自分が開拓できる領域はまだまだたくさんあるだろう。こうして中島氏は自分の進むべき未来を見つけた。
社労士合格に向けてTACの講座に申し込み、勉強時間を確保できる仕事を見つけ、朝の8時半から夕方5時半まで働いた。退勤後は軽食をとってTACの講義を受け、図書館で深夜まで勉強する。そんな日々を3年間続けた。そしてある程度、自信がついたところで仕事をやめ、勉強に集中して追い込みをかけた。
「とにかく毎日、眠かったです。最初の頃は講義の最中で寝てしまったこともありました」と中島氏は笑う。そして2017年、社労士試験に合格。母の立ち上げた事務所で働くこととなった。
中島労務管理事務所では、クライアント企業の人事や労務に関するトラブルを解決し、企業がさらに成長していくための提案までを行うコンサルティング業務を主としていて、その他にも助成金の申請や給与計算、採用支援など幅広く行っている。
大学2年のときは「お手伝い」だった中島氏だが、今度は社労士という人事・労務管理の「プロ」としてこれらの業務に携わっている。親の事務所だからという甘えはなく、売上を生み出すべく新規顧客開拓のための商談を取ってきたり、新しいサービスを考えたりと、試行錯誤と挑戦の毎日だ。そこには、カードゲームや大学で学んだ経営工学の知識や、同人誌販売で身につけた商売勘、向いていないと思っていたIT企業での営業経験が活かされているのだという。
「新卒で営業職をしていたときには気づきませんでしたが、本当は営業が好きだったのだと思います。形が決まっていない状態から、データを集めて分析し、流れの中で柔軟に戦略を変えていきながら正解を見つけて、取引につなげていく。それには高校時代に夢中になったカードゲームがきっかけで経営工学を学んだことが活かされています。それに今思えば、営業職を経験することでコミュニケーションスキルも磨かれていたのだと思いますし、同人誌販売をしていた経験も、経営の視点を教えてくれた大切な経験でした。高校や大学で留年したことも、そのぶん人脈を広げることにつながり、社会に出た仲間たちから多くの相談を受けるきっかけになっていますね」
入所から4年。今では助成金の案件に対応するためキャリアコンサルタントとしての資格も取った。仕事の幅を広げつつ年商1億円の規模まで売上を広げるのが夢だと言い、高額なシステムを導入できない中小企業に向けたサービスを提供するIT企業の立ち上げも考えている。様々な消費活動で得られるビッグデータの解析にも興味があるという。
IT企業を退職したあと「胸を張って話せることが何もなかった」と話していたが、社労士としての将来の展望を語る今の中島氏の表情は、とても生き生きとしているように見える。最後には資格を取得することの意味について、現在将来を模索中の方に向けて熱いメッセージを送ってくれた。
「資格を取得したことで、何でもない人間だった僕が、先生と呼ばれるようになりました。IT企業の営業職だったときはひとつのアポイントを取ることにも苦労していましたが、資格取得後、国家資格である社労士という肩書がついたことで、企業の社長にも会うことができて、話を聞いてもらえるようになりました。企業の現状をお客様からヒアリングし、適切なサービスや商品を提案するという意味では、営業職時代の仕事と社労士の仕事はよく似ていますが、お客様の反応は全然違いますね。営業職時代は『販売』と捉えられてしまい、煙たがられることもあったのが、今は自分たちの悩みを解決してくれる『提案』として、私の話を信頼してじっくりと聞いてくれるのです。それに提案の内容がその企業にとって魅力的であれば喜んでもらえますし、提案した方法が実際にうまくいけば次の仕事の依頼も次々に入っていきます。お客様から『ありがとう』と言ってもらえて、しかもお金ももらえる。こんなにうれしいことはありません。
昨今の働き方改革やコロナ禍で、日本人の働き方が大きく変わってきていることもあり、社労士のニーズは高く、活躍する場はまだまだ無限に広がっています。『食えない資格』という話もありますが、社労士としての知識にプラスして、何か経験やスキルを持っていることがこれからは大事になるのではないでしょうか。
私は人よりも遠回りが多い人生だったかもしれませんが、そのぶん今まで無駄だと思ってきたことが、資格を取ったことで次々に繋がって、今の自分に活きているように思います。受験勉強は大変なことも多いと思いますが、最後は『できるか、できないか』ではなく、『やるか、やらないか』です。将来について悩んでいたら今までの経験を活かす手段として、資格取得をめざすのも一手です。私自身、まだ社労士としてのキャリアが始まったばかりという身ですが、皆さんのことを応援しています」
挫折や失敗をたくさんしてしまった人ほど、資格取得後にそれらが無駄でなくなる。志村けん氏の言葉のように、人間には“無駄”が必要で、逆に言えば人生に無駄なことなどないのかも知れない。
[『TACNEWS』 2021年6月号|連載|資格で開いた「未来への扉」]