LET'S GO TO THE NEXT STAGE 資格で開いた「未来」への扉 #20

  
Profile

寺内 泉(てらうち いずみ)氏

有限責任 あずさ監査法人
公認会計士

1986年生まれ。明治大学商学部卒業後、アルバイトをしながら公認会計士の資格取得をめざす。2012年に合格し、2013年に有限責任あずさ監査法人入社。現在、東京第5事業部/シニア/公認会計士として勤務。ほか、公認会計士協会の委員や会計教育の講師を務める傍ら「資格と関連づけた心理学」を通信制の大学にて学んでいる。

【寺内氏の経歴】

2007年 21歳 高校時代はパティシエになりたかったが、恩師の助言により大学に進学。

          大学3年生時に公認会計士という仕事を知り、興味を抱く。
2009年 23歳 レストランなどでアルバイトをしながらTAC水道橋校に通い、公認会計士の資格取得をめざす。
2012年 26歳 短答式試験に合格。
2013年 27歳 論文式試験に合格。有限責任あずさ監査法人に入社し、大手自動車部品製造会社を担当。
2016年 30歳 シニアのポジションに昇格。
2019年 33歳 公認会計士協会委員に就任。会計教育やCSR活動に活かすため、働きながら大学の通信教育部で心理学を勉強中。

自分の人生は、自分で切り開いていく。
そのために何かの職能を身につけた専門家になりたい。
そう思ったとき出会った「公認会計士」という仕事。

 公認会計士が行う監査業務は、ルーティンワークの繰り返しだという話を耳にすることがある。しかし、あずさ監査法人で公認会計士として働く寺内泉氏は、公認会計士の仕事は毎日が新しい経験と学びの連続であり、これほどエキサイティングで充実した仕事はないと言う。
 高校時代はパティシエをめざしていたという寺内氏。そんな寺内氏に、公認会計士をめざしたきっかけや仕事の魅力、将来の夢について語っていただいた。

パティシエになりたかった中学・高校生時代 恩師との出会いで訪れた転機

 中学時代、バレンタインデーにチョコレートを作って友人と交換した。「おいしいよ」とほめられてうれしくなり、お菓子作りにはまった。毎日のようにお菓子作りにはげみ、高校生になった頃には、使用する材料の配合や作るときの温度を変えて、その変化がどう仕上がりに影響するかを試す探求心も芽生えた。輸入物のチョコレートを手に入れて、あれこれ試す日々。この楽しい趣味を一生の仕事にできたら、どれだけ幸せなことだろう。「将来はフランスに留学して、パティシエになる」いつしか自分の将来を、自然にそう決めていた。しかし、寺内泉氏はパティシエにはならなかった。
 転機は高校3年生の時。学校で将来の進路を相談する機会があった。担任の先生に「パティシエになりたい」と告げると、こうアドバイスされた。「いまの時点で自分の将来を決めてしまうのは早すぎる。世の中にはもっといろんな仕事がある。それを、大学に進学して4年間勉強する中で知るべきだ。4年後にまだパティシエになりたいと思うなら、それからでも決して遅くはない。それに、物事には努力だけではどうにもならないこともある。今から選択肢をせばめてしまって、あとで後悔するようなことは避けてほしい」
 この恩師の言葉が、寺内氏に大きな影響を与えた。寺内氏は、恩師が卒業した明治大学を志し、商学部に籍を置いた。
 大学に進学したのには、恩師の言葉のほかに別の理由もあった。それは、パティシエになろうと思い店の経営についてさまざまな本を読んでいたときのこと。減価償却とは何か、材料の仕入価格と販売価格のバランスはどう考えるのか、利益はどうやって出すのか――。どれもこれも知らないことばかりだった。おいしいものを作ってさえいれば自然と売れる。そんな単純な考えでいた自分が恥ずかしくなった。「仕事をするって、そんな簡単なことじゃないんだ」この時、社会を知らなすぎる自分と、ビジネスにおける会計の大切さに気付いた。

自分自身の判断で人生を切り開く 「公認会計士」という仕事との出会い

 大学1、2年生のときには、経営や会計の基礎を学んだ。「公認会計士(以下、会計士)」という職業を意識し始めたのは3年生になったときだ。ゼミを選ぶ段階で迷っていると、同じクラスのある男子学生が「僕は会計士になるんだ」と言っていた。会計士という仕事の魅力や可能性について彼は語り、その未来にはなんとなく自分のめざしているものと同じものがありそうな気がした。その頃には、社会を見る視野も広がってきていて、「ビジネスの世界で活躍してみたい」という思いが強くなり始めていた。会計を学んでいるうちに、自分の適性がこの方面に合っているようにも感じた。「会計っておもしろい。我ながらセンスがあるかも」と思った。
 生来、決められたことを決められたとおりにやっていくよりも、自分自身で判断して人生を切り開いていきたいと考える性分だった。卒業・就職という転期を控え、友人たちが何十社という会社にエントリーシートを送っているのを見ながら、同じテンションでがんばれない自分がいた。「自分の人生は自分で舵を取りたい。私は何かの職能を身につけた専門家として、どこにいてもどんなときでもそれを武器に、国籍も年齢も超えて戦える存在になりたい」

 では、どうすればそんな存在になれるのか。そう考えた時、友人の男子学生が言っていた「会計士になる」という言葉が頭をよぎった。答えはそこにあった。
 「自分は女性として将来、結婚するかもしれない。子供を産むかもしれない。そんなプライベートでの生活の変化があっても、会計士という職能を身につけていれば、自分の人生のペースに合わせて働いていくことができるのではないか。」会計というもの自体も楽しかったが、会計士は働き方としても大きな魅力があった。
 卒業後、TAC水道橋校に通い、レストランなどでアルバイトをしながら会計士の資格取得をめざした。大学を卒業してすぐの2009年、最初の短答式試験を受けたものの残念な結果となった。その後も合格できずに年を重ねる厳しい時期が続いたが、2012年に短答式試験の合格を果たす。そして、次の段階である論文式試験に臨んだ。
 「TACには、大学時代から知っている友人も多く通っていました。昼食を一緒に食べて講義に関する情報交換をするのは心の支えでしたね。おかげで、ひとりではがんばり切れなかったこともやり遂げることができました。ただ、その友人たちは論文式試験を一回でクリア。自分だけが合格できなくてとてもショックを受けました」しかし、寺内氏はこの経験をバネにして奮起。2013年、見事合格を果たし、有限責任 あずさ監査法人に入社する。
 あずさ監査法人では、情報・通信、自動車、ゲーム、アパレルなどの日系・外資系企業を対象に、日本の会計基準やIFRS基準による監査を行う東京第5事業部に配属となった。寺内氏はその中で、「自動車関連の製造業を担当したい」と希望を出した。社会のことも、会社のこともまだあまりよくわかっていなかったため、会社というものが何をしているものなのか、まずはしっかり学ぼうと思ったのが理由だ。製造業なら、部品や材料を仕入れて加工したものを販売会社に売り、そこから末端のお客様に届くまでの一連の流れを見ることができる。さらに海外に展開していれば、海外とのつながりで、どうやって経営をしているのかも見ることができる。「いまは修行の期間だ」と考え、ひたすら仕事に追われる時期を過ごした。
 会計士の登録には、論文式試験合格後2年間の監査実務経験を経て、実務補習所で所定の単位を取得し、修了考査試験にも合格しなければならない。定時に業務を終えて実務補習所に向かい講義を受け、土日には試験があった。仕事と勉強のため、事務所と実務補習所の往復をするだけのような日々。しかし、なりふり構わず、とにかく学べるものはなんでも学んだ。
 そんな折、仕事で転機が訪れる。1年目に担当した自動車関連の会社は歴史もあり、経理のスタッフも優秀で必要な資料が期日通りに提出された。社会の規律にのっとった作法のようなものを学んだ気がして、それが標準だと思っていた。ところが、2年目に担当した会社は違った。上場してまだ10年目くらいでスタッフも若手が多い、インターネット広告の会社。交わす言葉は友達言葉で、ノリで仕事をしているような社風。だが、1年目に担当した自動車関連の会社に比べ、会計の専門家として頼られることが圧倒的に増えた。「こういう新しいビジネスをしたい、ついては会計処理はどうすればいいのか」「新しいサービスを展開したい、それについて会計士の立場からどう考えるか」――。次々と投げかけられる疑問や相談。その一つひとつに専門家として、しっかりと対応しなくてはならない。それまで監査の仕事とは、誰かが作った数字を後追いでチェックするもの、そして煙たがられながらも間違いを指摘し、やり方を修正してもらうものと考えていた。でも、その会社はそうではなかった。そんな上からの目線ではなく、同じ土俵に立って密接にコミュニケーションを図りながら、会社にとってのベストアンサーを共に探っていく。そういった立場を求められた。もちろん、自分ひとりでは解決できないことも多い。会計士のチーム内でさまざまなことを検討し、上司にも相談した。間違ったことは伝えてはならない。しかし、教科書的には正しくても、実務上、難しいこともある。会計士の試験対策時は重要度が低かった事柄も、実際の仕事では頻出することもあった。
 仕事では、英語を使わなくてはいけないシーンもあった。外資系企業のリファーラル(子会社監査)業務では、英語でのミーティングもあった。英語の実力はそれほど高くなかったが、わからないことがあればその都度辞書で調べ、監査に使う英語の専門用語を覚え、実践で英語を磨いた。「コミュニケーションが、こんなに大事なものとは…」それは新しい発見だったと同時に、コミュニケーション能力の高い会計士として、仕事の可能性と幅を広げるものだった。
 そんな仕事をこなしながら3年間補習所に通い、修了考査試験にも合格。日本公認会計士協会に会計士として登録を済ませた。才能にあふれたパティシエが誕生する可能性はなくなったが、ひとりの意欲にあふれた会計士が誕生した瞬間であった。

常に新しいことを学び、体験する日々の中で自分にしかできない何かを見つけたい

 入社4年目にシニアのポジションに昇格。現在は6年の実務経験を経て、4名から5名の部下を抱え主査を務める。クライアントの直接の窓口となり、仕事を分担しスケジュールを管理しミーティングを仕切り、クライアントの会計処理上の相談にも対応する。不正の兆候や会計処理上のエラーも、さまざま観点から対応について検討する。寺内氏はその傍らで、法人内で実施しているキャリア教育制度である会計教育にも取り組む。入社2年目から携わっているCSR(企業の社会的責任)の活動だ。小学生とその親に会社に来訪してもらい、会計の授業をする。中学生や高校生が対象のものもある。授業のコンテンツ制作にもかかわり、NPO法人などが行う講師の研修にも参加してスキルを上げている。「教えた子どもたちの中には、会計士に興味を持つ子もいます。会計士ってすごいとかかっこいいとか言われた時には、やりがいを感じます。自分の授業を聞いて、未来の会計士をめざしてくれる子どももいるかもしれないですね」と寺内氏。そして、高校時代のことを回想してこうも言っている。
 「ちょうど私が恩師の言葉に影響を受けたように、誰かの人生に私が影響を与えて、その人がイキイキと働ける仕事を見つけてくれたら、それは本当にうれしいし、すばらしいことだと思います。これは、会計に興味を持ってくれた子どもたちを見たときの率直な気持ちですね」
 また現在は、心理学を通信制の大学で学んでいる。目的はコミュニケーション能力を高めるためだという。これほどまでに多方面にがんばれる寺内氏の原動力はいったい何なのだろうか。
 「会計士の仕事は、最先端で日本の経済を支えている企業の方々と接点を持てることが最大のメリット。そのためにはコミュニケーションスキルが一番重要です。
 いま、働き方改革の必要性が叫ばれていますが、私たちのような業界では難しいと考えていた時期がありました。そんな折、『限られた時間で仕事をこなすことは可能だ』と、強いリーダーシップをもって働き方改革へと導いてくれた尊敬する上司がいました。その上司が、『君たちなら絶対できるから』と言ってくれたときに、リーダーシップを発揮するコミュニケーション能力の重要性を知りました。そして、環境を変えることは、人間関係を変えることだと感じたのです。どんなに忙しくても、いい仲間といい仕事ができることは幸せなことです」
 寺内氏は、企業活動についても次のように言う。
 「企業は、毎年毎年同じことばかりやっていたら成長できません。新しい事業に着手するとか、成長のシーズのある会社を買収するとか、経営の課題は毎年変わります。会計士の仕事、特に監査は毎年同じことの繰り返しと言われることがありますが、実際はそんなことはなく、企業の成長とともに常に新しいことを学び、体験する日々の連続です。これは実際に資格を取る前と後とのイメージのギャップですね。私は比較的革新性の高い企業の担当を自ら希望し、これからもいろいろな業界を見てみたいです。人の気持ちがわかる、確かなコミュニケーションができる会計士として、自分にしかできない何かを見つけるのが、いまの私の夢です」
 心から楽しみ、誇りをもって向き合える。それこそが寺内氏にとっての会計士という仕事なのであろう。
 毎日、多忙な中でも新しいことにチャレンジしながら日々まい進する寺内氏。恩師の言葉がきっかけでパティシエから会計士へと目標を変えた人生を振り返り、寺内氏にとって資格とはどんな存在かを聞いた――。
 「初対面の方とお話しするときも、会計士だというだけで信頼していただくことができます。会計士で、監査人であるということは、会計の専門家であると同時に『信頼のプロ』でもあるということだ、と私の上司も言っています。私もそこに誇りを感じています。厳しい守秘義務を守って公正な立場で働いているというところこそが、会計士という資格が社会に信頼性を与えている部分ではないでしょうか」

[TACNEWS 2020年4月号|連載|資格で開いた「未来への扉」]

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