日本のプロフェッショナル 日本の弁護士|2019年1月号
児玉 晃一氏
マイルストーン総合法律事務所
弁護士
児玉 晃一(こだま こういち)氏
1966年12月生まれ、東京都出身。1989年3月、早稲田大学法学部卒業。1991年、司法試験最終合格。1992年4月、最高裁判所司法研修所入所(第46期司法修習生)。1994年、弁護士登録(東京弁護士会)、吉岡桂輔法律事務所入所。1999年4月、児玉晃一法律事務所を東京都中央区新川に開設。2002年7月、東京弁護士会が設立した都市型公設法律事務所 東京パブリック法律事務所の開設メンバーに加わる。2007年5月、りべる総合法律事務所にパートナーとして参加。2009年12月、マイルストーン総合法律事務所を開設。
弁護士としてのスタートから外国人事件に関わり、収容からの解放を中心とした 外国人救済事件にライフワークとして取り組んでいきます。
どのような立ち位置で自分のやるべき任務を全うするのか。弁護士ほど、その真価を問われる職業はないのではないだろうか。常に何が正義なのかを判断し、自分自身の責任のもとで行動し、その結果にも責任をとる。児玉晃一弁護士は、それが弁護士だと言ってはばからない。これまでアフガニスタン難民事件を始め、多くの難民問題や入国管理問題を扱い、東日本大震災では弁護団リーダーとして被災地を毎月で訪問し弁護活動をしてきた。児玉氏の足跡から「弁護士は何をすべきなのか」を考えていきたい。
2年で司法試験合格
司法試験に合格すると2年間(1992年4月当時)の最高裁判所司法研修所での司法修習が始まる。裁判官をめざすか、検事をめざすか、それとも弁護士をめざすか。司法修習生が学びながら自分の進むべき道を決める期間だ。その司法修習で、指導担当弁護士が東京入国管理局(入管)に連れていってくれた。それまでそんな組織の存在すら知らなかった修習生は、そこでの光景にがく然とする。「こんなに横柄な口をきける人間が世の中にいるんだ。ましてや国家公務員が外国人に対してこんなひどい口のきき方をするなんて……」。ものすごい衝撃だった。弁護士・児玉晃一氏はこの経験から外国人の人権擁護に取り組もうと決めた。
実家はラーメン屋で、自分を含め父方のいとこ11人のうち、大学に進学したのは児玉氏ただひとり。そんな家庭環境のもと、児玉氏は早稲田大学法学部に合格した。 「法学部に進学したからといってあまりカッコいい話はないんです。ブルースのバンドをやったり英文速記のサークルに入ったりしてずっと遊んでいたので、大学4年になってもやりたいことが見えてきませんでした」
周囲を見渡すと、それまで一緒に遊んでいた仲間が金融機関から内定をもらっている。だが、「みんなきちんと考えているんだな」と感心するばかりで、まったくピンとこない。何日か考えてみたが、やはりやりたいことは見つからなかった。
「ちょうどバブル経済期だったので、履歴書を出せばどの企業でも雇ってくれたでしょう。でも、やるなら実力勝負の世界がいい、それなら司法試験がある、と決めたのは大学4年の5月でした」 児玉氏は大学卒業後に司法試験の勉強をスタートした。当時は司法試験合格に5〜10年かかるのは当たり前と言われていた。しかし、そこまで親には甘えられない。 「25歳までやってだめだったら諦めよう」
期間限定で遊びも一切封印し、脇目も振らずに司法試験にむけて猛勉強した。結果、たった2回の受験で司法試験合格を手にしたのである。
スタートから外国人の不法滞在に取り組む
司法修習が始まった頃、児玉氏は「良心と法律のみに従って職務を遂行する裁判官になりたい」と考えていた。ところが修習生になってみると、様子は違っていた。 「裁判官は良心と法律に則っているわけでなく、私が一番嫌っていた組織の一員に他なりませんでした。検察はおもしろかったけれどやはり組織の一員。彼らは人を黒く染めていくのが仕事です。弁護士はそれを、いいところを見つけて白く弁護していくのが仕事。弁護修習の指導担当弁護士から強い影響を受けたこともあり、弁護士になろうと決めました」
冒頭の入管での経験はその頃のエピソードだ。そこでの衝撃的な経験が、児玉氏を外国人問題へと駆り立てた。それこそ弁護士になりたての2〜3年は「不法滞在=オーバーステイ」を中心に、同時に10件もの国選弁護事件を引き受けていたこともある。
「外国人の不法滞在は、執行猶予がついても入管に送られてそのまま自分の国へ送り返されます。どの国の人でも、何年不法滞在しても、だいたい判決は懲役1年6ヵ月、執行猶予3年。ただし判決が出るまでの1ヵ月半は東京拘置所に勾留されます。だったら最初から入管に送って自分の国へ返してあげればいいのに。懲罰的に判決までの勾留を使うのは間違ってるんじゃないか。そう考えざるを得ないんです」
そのような状況だったので、依頼者が捕まった状態で接見に行くことが多かった。
「この程度のことで1〜2ヵ月も勾留されるなんてかわいそうだ」と児玉氏は強い憤りを感じた。さらに、入管収容問題にも関心を持ち、入管問題調査会などのNGOと協同して、入管収容からの解放についての積極的な活動を始めた。そんな中で起こったのが、2001年10月3日のアフガニスタン人難民認定申請者9名の一斉摘発だった。
難民認定申請中の9名が一斉摘発され、その全員が入管に即刻収容されるという前例のない事態、彼らの住所まで調べて直接強制的に連行するという公平性を欠いたやり方に、児玉氏はいてもたってもいられず、アフガニスタン難民弁護団のメンバーとなったのである。
「あまりに不合理な収容であったため、1日も早く解放してあげたいという思いから、私たち実働20名の弁護団は急ピッチで準備を進め、10月13日、収容令書の取消訴訟および執行停止の申立てを行いました。そんな一刻を争う状況のなかでも、難民申請者一人ひとりに収容中の状態を聞いたり、丁寧に依頼者の声に耳を傾け、夜遅くまで会議を重ね、訴状を完成させていきました」
11月5日、東京地方裁判所から急きょ呼びだされた弁護団は、4名について執行停止の申立てについて決定の言い渡しを受ける。決定は「執行停止申立て却下」。残念な決定に、児玉氏は「今回の事件、弁護団体制で認められなければ、今後30年何も変わらない。諦めず、とことん頑張ろう」と仲間に声をかけ励ました。
そして翌11月6日。東京地方裁判所は、申請者5名について執行停止の申立てを認め、5名の身柄は1週間後に解放された。決定は5名の申請者が「難民である蓋然性が高い」ことを認めた上で、本件収容令書発付処分が難民条約31条2項に反すると明確に述べたのである。「収容令書発付が難民条約に反する」と判断した初の決定であり、収容令書の執行停止が認められたという点でも非常に珍しい、価値ある決定だった。
「当時、私の仕事の8割がアフガン事件で、夜遅くまで会議を行ったり議論を重ねたりで本当に大変でした。弁護団のなかでは、すべての弁護士が自然にできた役割分担に従い、それぞれの仕事を一生懸命行いました。裁判官の心証に変化を及ぼすことができたのは、その成果かもしれません。依頼人のためにとことんやる。やれることはすべてやる。弁護団のメンバーみんながそんな思いでした」
「生まれながらオーバーステイ」の子どもたち
現在でも執務時間の3割が外国人事件という児玉氏は、「スタートに不法就労で摘発された外国人事件ばかりを扱っていたのが良かった」と言う。今でもオーバーステイ、特に「在留資格のない人たち」の事件が多いからだ。 オーバーステイは、ときに別の顔をしてやってくる。難民はもともと偽造パスポートで日本に入国する場合が多い。バブル期などは、短期滞在の観光ビザで入国し、90日間の在留期間を過ぎても在留している人が多かった。このような経緯で日本に入り、仕事をして生活し、子どもが産まれてからもずっと滞在し、子どもが中学生、高校生になった人たちもたくさんいる。
「外国人同士のカップルの場合、子どもは日本で生まれても国籍は両親の母国しかありません。厳密に言えば60日間は滞在可能ですが、それを過ぎたらオーバーステイ。つまり子どもは生まれながらにしてオーバーステイなんです」
1999年、オーバーステイの子どもたちの事件で、児玉氏は弁護団の事務局長を務めた。そこで初めて中学生、高校生になったイラン人の子どもたちと面会した。 「もちろん顔はイラン人。日本人の顔はしていないんですけど、言葉遣いは完璧にその辺にいる中学生、高校生とまったく変わりません。当たり前です。だってその子は一度もイランに行ったことなどないんです。日本で生まれて、日本のテレビを見て、日本の子供たちと一緒に喋っている。私にも子どもが3人いますが、同じように言語を習得して、同じように音楽を聴いたりお笑いを見たり、そういう子たちなんですね。違うのは親の国籍だけで。この子たちをイランに帰したって、言葉は話せないし読めないし、イランで流行っていることなんか何も知らない。そんな子たちを強制送還したらどうなると思いますか。そこまですることはないでしょう。ただ、摘発されて見つかってしまえば強制送還の対象になってしまうので、裁判を起こす前に、在留特別許可を認めてもらえるように本人自身で出頭してもらいました」
外国人の子どもの在留資格が認められたのは1999年。21名が出頭し、中学生以上の子どもがいる4家族16名が認められたのが初めてだ。その後はこれがひとつの基準となって、認められる例は増えてきた。
「1999年にひとつの基準ができて、その運用が10年ほど続きました。しかし最近は入管側が突然厳しくなる傾向があります。3年前は許可が出ていたのに同じ例で許可が出ない。そんなことを突然やり始めるんです。法治国家としていかがなものかと思いますね」と、児玉氏は国のやり方の不確定さに憤懣やる方ない。
今最も多い不法就労は技能実習生という顔だ。制度名目上は、日本で技能を学び、その技能を本国に持って帰り本国の産業の発展に役立てるとなっている。しかし内情は全く違う。
「ベトナムから来てカツオの一本釣りの技能実習をさせていると聞きました。でも、ベトナムでカツオの一本釣りの技能をどう役立てると言うのでしょうか。つまり技能実習生の実情は、前提が単純労働者の隠れみのであり、単純労働ではないと言ってるのは入管だけです。
おかしいと思いませんか。国の制度自体が、在留資格外の就労活動をおおっぴらに認めているのです。不法就労を助長しているんですよ」 こうした外国人のオーバーステイ問題は、今も全く改善されていないと児玉氏は指摘する。
「技能実習生や留学生を単純労働の担い手として使う。これを裏口政策と呼ぶ研究者も多い。名目上は単純労働は認めないと言いながら、ニーズがあるのを黙認していた時期がずっとある。
それが2018年秋の臨時国会で『単純労働もできる在留資格を認める』方向で大きく舵を切ることになりそうです。深刻な人手不足で、ようやく認めざるを得なくなってきたのでしょう」
まだ単身のみ、期間は5年といった条件付きの政策だ。5年働いて一定条件を充たせば延長して家族の呼び寄せもできるというが、「まともな人は違う国に行くと思いますね」と児玉氏は言う。それでも在留資格にとっての大きな一歩になることが期待されている。
紙芝居で被災地弁護活動
「信じたことはとことんやろう」。そんな思いで児玉氏は被災地での弁護活動も行っている。 「東日本大震災が起きた時、私は東京地方裁判所の地下で接見していました。そこで地震にあって外に出たらもう通信障害です。電車も止まっていて自宅のある町田までは歩けなかったので、家族の安全が確認できた後、実家がある大塚まで2時間かけて歩きました。震度5程度の余震もあって、家族と連絡がつかない間は本当に心配でした。その後には計画停電もありましたね。でも、現地に行ったらそんなのはかわいいものでした」
もともと難民支援協会との関わりから、「海外から来ている難民を含む外国人が避難所にいて困っているはずだから援護してほしい」という依頼で、調査のため難民支援協会のスタッフの方たちと一緒に被災地の避難所に行ってみた。すると、技能実習で沿岸部の工場などに来ていた外国人の多くは、中国大使館や韓国大使館などが何台もチャーターした観光バスで新潟空港に運ばれ、既に本国に帰していた。避難所に外国人はほとんどいなかったのである。
「ただ、現地は本当に大変で、外国人がいないから僕らは関係ないなんてとても言える状況ではありませんでした。とにかく何かをしなければ、僕らにできることは何かないかと、スタッフと相談して弁護活動をやることになりました」
以前、東京の被災者向け法律相談を見に行ったときのこと。事務所ぐらいの部屋に「法律相談やっています」と書いてあったが、相談者は誰もいなかったという光景を児玉氏は見たことがあった。
「弁護士がスーツを着てネクタイを締めて、『弁護士でござい。法律相談やってます』なんてやっても、実際は近寄りがたい。そして、生きるか死ぬかの状況の人には何が法律相談なのかもわからない。その待機型のやり方にはすごく疑問を覚えたので、メンバー約30人には、現地に入る際、まず『スーツは着てこないでください』と言いました。基本的に楽な格好で、『弁護士』と入ったライトグリーンのビブスを作りそれを着用しました。そしてここが一番のポイントですが、『相談室で待ってるんじゃなくて被災者のところにこちらから行きましょう』という方針を立てたのです」
命の問題がクリアになると、次は今後の生活設計、お金の問題が懸案事項になる。避難所の壁には制度説明を描いた紙がたくさん貼り出してあるが、量が多すぎるし、文字が小さすぎてお年寄りには読めない。そんな人たちに向けて、弁護団は「こういう申請をすればこれだけのお金がもらえますよ」と制度の説明をした。被災者が利用したら便利そうな行政サービスや手続き、そのやり方をわかりやすく絵に描いて紙芝居にしたのである。これなら、いつでもどこでも何回でもできる。
「避難所を順繰りに回って同じことをやったり、何人か集まっているところでいきなり紙芝居を始めたこともありました。最初は遠巻きに見ていた人も段々興味を示して、耳を傾けて内容について質問してくれるようになりました」
とても印象的だったのは、使い古しの封筒にボールペンで一生懸命メモしている女性の姿だ。あぁ、それほど情報に飢えているんだなぁと痛感した。
「当時、私が予め読んだ震災関連の法律相談の本には、基本的に絶望的なことしか書いていませんでした。典型的なのは『津波で家を流されました。ローンが残っています。払わなくてはなりませんか』という質問に「払わなくてはいけません」と答えているくだり。法律上はそうですが、現地に行って家を津波で流され、何も残っていない地面を見て、流された家のローンを払わなくちゃいけないなんて言われたら絶望しかないでしょう。私たちはもっと被災地の方が元気になるような話をしたかった。何とかできないかと思ったのです」
住宅ローンは、預金に残高があると毎月引き落とされる。そこで震災直後から弁護団が言っていたのは「預金は全額下ろしてください」と言う大胆な発言だった。
「全部下ろして大丈夫なんですか?という質問に、大丈夫、と自信を持っては言い切れませんが、1ヵ月や2ヵ月、引落ができなくても、いきなり競売にかけられたりはしません。流されてしまった家のローンなんか後で考えればいい。今手持ちの現金が必要なんだから、全部下ろしちゃいましょう。もしかするとこれだけの未曾有の大惨事なので、借金は免除されるかもしれません。
ただひとつだけ言えるのは、一度払ってしまったお金は間違いなく返ってこないことです。『今残っているローンは免除します』という制度はできるかもしれない。でも通帳の残高から引き落とされたお金まで返します、という制度設計がされることは、まずないでしょう。」
そして実際に、「個人債務者の私的整理に関するガイドライン」により、ローンが減免になった人たちもいる(2015年以降に発生した災害については「自然災害による被災者の債務整理に関するガイドライン」を利用。被災ローン減免制度とも言われる。)。少しでも希望の持てる話がしたいという児玉氏たちの思いは、形となったのである。
「何が正しいのか、何が正義なのか。その判断は自分で下し、自分自身の責任の元で行動し、その結果責任を取る。それが弁護士なんだ」。児玉氏はそう強く確信した。
あるとき、陸前高田の体育館で活動を終えて帰ろうとすると、被災者が立ち上がって、弁護団に向かって拍手と掛け声で見送ってくれた。
「また来て。ありがとう。がんばるよ……。涙が出ました。弁護士人生の中でも一、二を争う感動した瞬間でした」
こうして2011年3月から1年半、難民支援協会主催弁護団のリーダーとして月1回必ず被災地を訪問。その回数は15回を数えた。
被災地で活かされた裁判員裁判のプレゼンテーションスキル
被災地で感じたこと。それは「弁護士だから何をするか」、「これは弁護士の仕事かどうか」ではなく、「ひとりの人間として困った人のために自分の役割を果たす」ということだった。弁護士として垣根をなくし、被災者と真摯に向き合う。これが大災害に際して人として必要なことだと児玉氏は実感した。
実は児玉氏は裁判員裁判制度の開始にあたり、プレゼンテーションのプロに1年間やり方を学んで、実際の裁判員裁判で実践してきた。この経験が、震災時の紙芝居におおいに役だったのである。
「裁判員裁判は、それまでの裁判官とのやりとりとは全く違い、一般の人とのやりとりです。それまでの刑事弁護で、争いのある事件などでは数10ページから100ページを超えるような大量の弁論要旨を一生懸命作ること、つまり文章を作ることが主戦場で、法廷ではそれを読み上げるだけの儀式でした。ですが、裁判員裁判は裁判でプレゼンテーションしてその場で納得してもらえるような方法を採るので、全くアプローチが違うのです。裁判員裁判が始まったことは私にとってとても新鮮でした。
司法修習生になったときに、初めて実際の裁判を見たときはがく然としました。民事事件の法廷はわずか3分で終わってしまったりするのです。刑事弁護はそこまでではありませんが、法廷では言葉より、いかに紙に書くかが大事なのです。死刑判決を受けた時は120ページぐらい弁論要旨を書いて、それを2時間近くかけて読み上げたのですが、読んでいる自分も冗長に感じる瞬間がありました。後で聞いたら傍聴していた司法修習生は居眠りしていたそうです。このあまりに形骸化した法廷に、裁判とはそんなものかと思って緊張感もなくなっていたのです。
ところが裁判員裁判になってからは、むしろ『紙は出すな』と言われます。いかにその場で説得するかが重要になってきたのです。今は最終弁論を15分、ペーパーレスで全身全霊を注いで話し終えると、体中から力が抜けてぐったりするぐらい全力を出しきった感じになります。それはやりがいでもありますね」
一般の人にわかりやすく伝える。その時に培ったプレゼンテーションスキルは被災地の紙芝居による説明でおおいに役に立った。それは児玉氏の弁護士スキルをさらに広げたことは言うまでもない。
「何のために弁護士をしているのか」
現在、外国人事件は全体執務時間の3割。その他、多岐にわたる事件を扱うが、最近増えているのは「遺言を偽装された」、「親を施設に入れてどこに入れたかも教えないで遺言を作られた」、「親の預金を勝手に引き出された」といった相続に関係した事件が多いという。「刑事弁護も自分なりに頑張ってきましたが、日本中に優秀な人がたくさんいますから、そちらで最前線に立つのではなく、まだまだ手薄でニーズも高い入管分野を私はやっていきます」と、今後はライフワークとして、収容からの解放を中心とした外国人救済事件に関わると話す児玉氏。ただし、弁護士活動はやりがいと双璧で多くのリスクをはらむ。 「うまくいっているときはいい。でも依頼者だったり相手方だったり、対立することは残念ながら珍しくありません。普通の生活の中で怒鳴りあったりすることなんて、普段はありませんよね。ところが離婚事件では相手方から、『おまえ人の話聞いてんのか!』と怒鳴られたりもします。普通の人なら一生に一度ぐらいしかないような離婚だったり、遺産のもめごとだったり、そういう事件を同時に30〜40件も抱えていると、ものすごくストレスが溜まるんです。後輩の中には抱え込みすぎてしまって精神を病んでしまった人もいます。 ですからこれから弁護士をめざそうという若い人は、相談できる人とストレスの発散方法をしっかり確保しておいていただきたいですね」
弁護士が飽和状態で仕事がないと言われることもある。しかし児玉氏の考えは少し違っていた。
「確かに刑事事件の国選弁護人は東京23区ではなかなか受任できません。でも多摩支部や横浜、千葉、埼玉、大阪では、やりたければ国選弁護人は取れると聞きました。逆に言えば、刑事事件の国選弁護人の受任が困難なのは23区内だけのようです。」
事件が解決したとき「ありがとう」と言ってもらえる。それが何より心の糧になる。外国人難民救済でも被災地訪問でも、皆からの感謝の言葉は何より励みになった。ひとりの人間として困った人のために自分の役割を果たす。そして何が正義なのかを判断して、自分で結果に責任を持つ。児玉氏は自らの足で歩みながら「何のために弁護士をしているのか」を学んできた。
刑事事件の国選弁護人の数の問題。弁護士となって食べていけるのかという課題。それは確かに法曹をめざす受験生にとっては死活問題かもしれない。しかし、問題はそこだろうか。何が正義なのか判断し、困っている人を救う。それが弁護士の仕事ではないだろうか。
児玉氏は言葉ではなく、行動でそれを教えてくれている。
[TACNEWS|日本の弁護士|2019年1月号]