日本のプロフェッショナル 日本の会計人|2017年12月号
二瓶 正之氏
税理士法人ASSETS 代表社員 税理士
二瓶 正之(にへい まさゆき)
1960年生まれ、新潟県出身。明治大学商学部卒業。卒業後、アルバイトを経て会計事務所に勤務しながら税理士をめざす。1992年、税理士試験5科目合格。1993年、税理士登録。2002年、勤務先の会計事務所の代表に就任。2010年、税理士法人ASSETSに組織変更、現在に至る。
クライアントと社員の幸せをめざして。組織をどう大きくするかより、どうしたら楽しくなるかに重点を置いています。
どのような組織ならスタッフが満足し、楽しく仕事ができるのだろう。どうしたら誰も辞めない、未来永劫続く組織ができるのだろう。人材の流動率が高いと言われる会計業界の永遠の課題のひとつだ。組織にとって何よりも重要なのは人材だ。もちろん、独立開業という大きな前途があるにしても、税理士法人を組織したリーダーにしてみれば、長年共にやってきたメンバーの離脱ほど悲しいものはない。税理士法人ASSETSの代表・二瓶正之氏も、この課題を悩み抜いてきた。ジョークを交え、明るくひょうひょうと話す二瓶氏に、税理士となったいきさつや業務を通じて得た成功体験、今後めざす組織像について伺った。
「税理士は儲かるぞ」
23歳から税理士受験を始め、合格までに8年。そこからの税理士人生は世間の荒波にもまれた。やりがいを感じたり、救われたり、裏切られたり。人生は、そんなドラマに満ちている。税理士・二瓶正之氏が行きついたのは「社会を幸せにすること」。まずは二瓶氏の歩みをひも解いてみよう。
新潟県にある旧家の二瓶家。その十二代目を父に持つ二瓶氏は、次男坊として生まれた。旧家のせがれとして、毎朝起きるとぞうきん掛けをさせられる。そんな厳格な育てられ方をしたという。農家を営んでいた父は、途中から織物工場経営に転換。経営者となってからは、農家よりも安定した生活を送れるようになったのを覚えている。スポーツが得意で活発な小学生だった一方、勉強はまったくせず、小学校2年生で「1年進級を遅らせようか」と担任から言われたこともある。そこからの巻き返しはものすごく、次第に友達に追いつくと学級委員まで務めるようになり、高校は地域の進学校だった十日町高校に進学した。
十日町高校に進んだ二瓶氏はバスケットボールに熱中し、勉強はまったくしなかった。そんなある時、父親から顧問税理士とゴルフに行くのでキャディをするように言われた。同行すると、その先生からなんと1万円もお小遣いをもらったのである。
「税理士は儲かるぞ」。父に言われた言葉が印象に残った。「サラリーマンのように人に使われる側にはなりたくない。お金を稼げる人間になりたいという気持ちはあったので、その時、将来、税理士になるのもありかなと思ったりしましたね」と、振り返る。
受験勉強はしなかったので現役ではどこの大学にも受かることはできなかった。父は「浪人はさせない」と言っていたので、会計の専門学校に行こうと資料を取り寄せていると、「お前は3月生まれだから1年くらい浪人してもいいぞ」と計らってくれた。
「さすがに勉強しないとまずいな」という思いで、卒業後は上京し、3畳一間に下宿しながら必死に受験勉強に励み、一浪して明治大学商学部に進学した。
モラトリアムからの税理士受験
大学生になると、頭では「税理士になろう」と思っていたので、学内にある簿記クラブをのぞいてみたが、独特の雰囲気に耐えられず、すぐに辞めてしまう。そこから無気力な学生生活が始まった。 「私たちはモラトリアムな世代。同世代みんなに同じような空気があって、社会に出る前は無気力な学生生活を送っていました。飲んだくれたり雀荘に入り浸りで、勉強なんてまったくしない。当然、学生時代から税理士試験に挑戦なんてあり得ないんですよ」
モラトリアム世代の大学生を描いた「ふぞろいな林檎たち」というドラマが大いに流行った。学生運動が終焉へと向かう時代、大学の校舎には過激な闘争時代の名残のように立て看板がかかっていても、誰も「三里塚で反対運動」を本気でする者はいなかった。 「基本、ノンポリな学生ばかり。私のような昭和35年(1960年)生まれは、そんな時代と時代の狭間だったんです」
大学4年になると、当時はリクルート社から『リクルートブック』という分厚い冊子が届き、それをきっかけに就職活動をスタートするのが一般的だった。ところが、一度引っ越したせいか、二瓶氏の元には届かなかった。そのまま就職活動をするでもなく、卒業間近まで過ごす。それでも「働かざるもの食うべからず」が信条だった二瓶氏は、新聞広告でリクルート社がアルバイトの求人広告を出しているのを見つけ、働くことにした。配属されたのは営業経理だった。
銀座8丁目にあるミラーカーテンウォールのリクルートGINZA8ビルは、当時のリクルート社の勢いをそのまま表しているかのように斬新でカッコよく、新しい時代を象徴していた。
「平均年齢20代前半、アルバイトが半分。アルバイトも正社員と同じように働き、社員のように扱われるので、やりがいがあって、夜中まで一緒に仕事していました。みんな若くて、上司である係長は高卒で私より年下だった。仕事もして、飲みに行って、富士山にも登って。とにかくすごく活気があって楽しかったんです」
気がつくと大学も卒業し、営業経理での成績が認められて関連会社の正社員としてのオファーをもらうこともあったが、「自分はサラリーマンに向いてるのか」と自問していた。 「楽しいけれど、このまま一生サラリーマンは無理だなと思いました。父親も自営業で経営者だったし、兄も歯科医師になったので、周囲にサラリーマンがいなかったこともあります。そこで1回、税理士試験にきちんと挑戦してみようかなと考えたのです。まだ23歳だったので、失敗してもいいだろうという感覚でした」
こうして大学4年から10カ月間勤めたリクルート社を辞めて、10月からTACに通学。通い始めると、商学部出身でありながらゼミにも入らなかった自分が、まったく簿記を知らないことを痛感する。 「TACに入ってからどれだけ大変だったか。普通は日商簿記2級を取得していれば簿記論についていけるレベルなんですが、日商簿記2級も取得していないのに、いきなり簿記論やって『わかんねえ』って、当たり前ですよね。 もっとすごいのは日商簿記3級もないのに、いきなり会計事務所に入って働き始めたことです(笑)」
言葉通り、二瓶氏はTACに通い始めて翌年7月までは受験に専念していたが、試験が終わってから会計事務所に入所。なんとその年は財務諸表論と相続税法に合格することができた。そこから会計事務所に勤めながら受験勉強をする二足のわらじ生活が始まった。 「最初の2科目に落ちていたらあきらめていたでしょうね。合格は、まさに『地獄の始まり』でした。18時頃まで仕事をして、18時20分〜21時20分までTACで黙々と勉強して帰宅。当時は貧乏で、住んでいたアパートには風呂がなかったので、帰ってすぐ銭湯に走る生活です。TACは当時、月・木と火・金の夕方から講義があって、土曜が1日コースだったので、ほとんど休みがありませんでした」
厳しい生活の中で2年後に簿記論に合格。そのさらに2年後、法人税法に受かり、税理士ヘの道のりもあと1科目となった。
5科目目は1992年、31歳で消費税法に合格。足かけ8年の受験生活だった。
合格した年は6月に結婚、8月に本試験、12月に合格発表で、その翌年3月に税理士登録。同年、長女が生まれるというジェットコースターのような1年間になった。
成功体験の積み重ね
二瓶氏が会計事務所に入って最初にやったことは、そろばんの練習だったそうだ。電卓でやれば早いのに「集計はそろばんが当たり前」と主張する税理士もいた時代である。 「電卓でやって見せて、メチャクチャ早くできたら、二瓶くんすごいね、と言われて、そこからはもう電卓でしたね(笑)」
帳簿も手書きからオフコン(オフィスコンピューター)に移行する時代。入所した年、事務所もちょうどオフコンを導入したばかりだった。と言っても所長始め職員は使い方がまったくわからない。当時は書類も和文タイプライターで打っていた。リクルート社でオフコンを使い慣れていた二瓶氏が、あっという間に入力、プリントアウトして「これでできますよ」とやってみせると、「わあ、そんなことできるの!?」と周囲は目を丸くした。そこから工夫を重ね、入力作業はますます早くなった。日商簿記3級もないのに1年目から立派な戦力として認められるようになったのである。
業務は、儲かっている会社の決算作業をすること。それの「どこがおもしろいんだろう」と疑問を感じていた。だから当初は「3年で辞めよう」と思っていた。ところが3年経って税理士試験合格にリーチがかかる頃になると、仕事がおもしろくなってきた。大手芸能プロダクションや様々な業界の経営者と話が直接できて、かわいがってもらえる。それはとても楽しい経験だったからだ。
「当時、まだ小さかった芸能プロダクションには私が大好きだったバンドが所属していて、そこからいろいろなエンタメ系のお付き合いが広がっていったし、少しずつ信頼されて相談を受けるようになって、楽しくなったんです。会計事務所の何が楽しいのかわからなかったので、こうした出会いは大きかったですね」
また、別のスポーツ関係会社からは当時流行したスキー映画の影響で「利益が出過ぎてしまってどうしよう」という相談を受けていた。二瓶氏は役員だった社長の息子と飲みながら、「もう納税するしかないですね」と言ったあと、「代表はお父様なのだから退職金を支払って辞めてもらい、あなたが社長になったらいかがですか?退職金は税率が低いから納税額は確実に下がります」と提案してみた。すると、その提案を受け入れてくれたのである。
「当時まだ下っ端だった私の提案を受け入れてくれて、そのあとは社長になって、ものすごく信頼してくださるようになりました。成功体験が積み重なって信頼される。仕事の醍醐味はそこに尽きるとわかったんです」
多くの成功事例の中でも忘れられないエピソードがある。今でも最も尊敬する芸能プロダクションの元専務が40歳、二瓶氏が33歳だった時のこと。プロダクションはまさに上場を目前にしていた時期、上場請負人だった元専務と二瓶氏は上場間近になってくると朝4時まで一緒に仕事をしてタクシーで帰宅、また10時に出社することもしばしばだった。ある時、決算がまとまり「二瓶さんありがとう。これで終わりです」と言われ、翌朝早くから宇都宮にゴルフをしに行くと、「ごめんなさい、修正が入ります。今どこにいますか」と連絡が入った。「わかりました、すぐに行きます」という返事とともに、そのまま新幹線に飛び乗って会社に向かい、翌朝まで24時間働きづめのこともあった。
元専務とは25年の付き合いだが、小さかった芸能プロダクションを上場させ、代表取締役専務まで務め、2017年の株主総会で勇退した。
「その方こそ1日も休まなかった。尊敬する人が私の倍も働いて休んでいないのに、私が休みたいなんて言えなかった。上場までお付き合いさせてもらえたのはとても貴重な体験でした。それだけ信頼して頼ってくれた。だから応えたかった」
仕事の中で、二瓶氏は「税理士はサービス業」という信念を持っている。クライアントのためになることをあれこれ提案するのが好きだ。その分、「もっとこうしたい」という思いがあってもトップでなければ決定権を持たないもどかしさも感じていた。そして40歳を迎える頃、「独立しよう」と決断した。
未来永劫続く組織を
独立の意思を告げると、事務所の所長は「それなら共同経営にしよう」と提案してきた。そこで2年後に自分がトップになることを条件に、共同経営の形で事務所の運営に乗り出すことになった。ところが、約束通りトップとなった数年後、共同経営者だった元所長は、突然何割かの顧問先を引き連れて辞めてしまったのである。しかも辞めるに際して二瓶氏以外の社員全員に声をかけていった。辞めた社員はたったひとりで、あとは全員残ってくれたのが不幸中の幸いだったが、仕事は3〜4割なくなった。
「大変なことになったと思いました。それでも社員が残ってくれたのはうれしかった。結果的にもハッピーだったのかなと今では思いますね」
こうした経験を経て、2010年、事務所を税理士法人ASSETSへと法人化。二瓶氏がこの世を去ったり、メンバーがいなくなった時にも組織として未来永劫続く体制づくりをめざした。そこから発展してクライアント、社員そして「社会が幸せになること」が組織のミッションとして位置づけられるようになった。
「特に社員の幸せは追求していきたい。だから、事業拡大を図っていこうと考えました。インターネットでの集客や異業種交流会と、営業にとことん力を入れました。担当がすべての仕事をするのではなく、業務プロセスが可視化できる、より機能を特化させた組織を整備しようと考えたのです」
ASSETSの業務内容は、法人の月次顧問と決算業務が柱となっていて、そこに経営コンサルティングを融合していく、あくまで王道を貫いたスタイルだ。業種的にはエンタメ系を中心に、アパレル、IT、サービス業、医療関係、美容院、エステサロン、ネイルショップとバランスよく分布する。
また、最新の業務支援ソフトの導入にも積極的で、顧問先の月次などのデータの税務監査を自動で行うシステムも2017年9月に導入している。異常値などがあると自動で検出してくれるので、業務の時間短縮と効率化にかなり役立っている。このシステムを使ってすべての顧問先データをチェックすれば、業務の流れを可視化でき、ブラックボックスもなくなるというわけだ。
事業を拡大していく中で「シェアオフィス」の運営も始めた。元々事務所が入っていたビルのワンフロアに空きができたことから、立ち上げたばかりの会社や起業家を支援しようという取り組みだった。入居者から税務相談や事業計画など経営コンサルティングを受けることで、会計事務所として様々な事業をサポートしていくのである。
「コストはかかりますが、起業家が成長してから顧問契約につながればうれしいし、何よりシェアオフィスを通じて、今まで取り組めなかった『社会への幸せ貢献』に取り組むことができるんです」と、二瓶氏は目を輝かせる。
製販分離、役割分担制へ
3年前から、大手コンサルティング会社との連携によって、いろいろな仕事を受け、営業に力を入れて事業拡大にまい進するようになった。二瓶氏は外に出て営業をかけ、一方で内部はゼロから10年間手塩にかけて育てた信頼できるメンバーにすべて任せていた。しかし、ある日ショッキングな出来事が起きた。内部のリーダー格だった税理士が顧問先を連れて独立してしまったのである。寝耳に水だった。以前共同経営者に裏切られ、またここで事務所の若手に裏切られる。二瓶氏はがく然とした。 「人間、お金のためなら何でもやるんだな。心底そう思いました」
何よりゼロから育てたメンバーに裏切られたことが悲しかった。しかも調べてみると、計画は用意周到に練られたものだったらしい。二瓶氏は営業を一切やめて、内部の立て直しに努めた。欠員を抱えたままにはできないため、ものすごい人数の面接も行った。良い人もいれば、箸にも棒にもかからないような人もいる。何十人という面接に継ぐ面接。「俺の仕事は何?面接〜」と、ジョークを飛ばす。
現在、正社員15名、フルタイムの派遣社員1名、週3回のアルバイト2名、在宅勤務のパート4名と総勢約20数名の陣容にまで盛り返してきた。
やっと落ち着いてきた今、思うのは、「楽しい事務所にしたい」ということ。そこで、戦力の立て直しとして、製販分離で組織を変え、役割分担制を導入することにした。電話と資料まとめ担当、入力担当、税理士有資格者でサインする担当と、顧客1社に対して数名で担当する。自分で取ってきた仕事を1から10まで担う顧問担当制から大きく舵を切り、情報をオープンに、可視化できる仕組みを作り、より会社らしい組織に移行する。
こうして何とか内部体制が整い、2017年9月から「お客様紹介キャンペーン」をスタートして営業を再開した。
「ただパンフレットと紹介カードを作って、担当がお客様に持参するだけなんです。絶対に『紹介してください』なんて言わなくていい。お客様に知ってもらうだけでいい。絶対に営業してはいけないよと言っています。それでもお客様は増えてくるんです」
人材を再構築して、新しいスターラインに立ったASSETSは、若い人材がゲーム感覚で楽しめる、おもしろい税理士法人をめざしている。2017年9月からは週2回、法人税法と消費税法の実務DVD講座を社内で開き、レベルアップを図っている。アルバイトも含めて参加できるこの講座で、単元ごとに最高点を取ったメンバーには、二瓶氏が自腹で4,000円の商品券を進呈する。また、それぞれの仕事内容をホワイトボードに書き出して「見える」化し、仕事が溜まってしまったら、担当ではない人もフォローする流れもできてきた。3月決算が終わった6月からは、9時〜18時が定時でも、17時を過ぎたら退社OKにした。だから、みんな一目散に帰っていく。
「ミーティングを終えて18時にスタッフルームに行くと、もう誰もいない。みんな18時前に帰ってるんです(笑)」と、多様な取り組みを笑顔で話す。 「人の採用はドライに考えることにしました。それと、もっと厳しく言わないと伸びないだろうなと思っても、まずはほめます。ほめて育てる、と決めました。
人に関しては、辛いこともありましたけれど、良いこともありました。ダメな人材ばかりじゃない。マインドの良い子がいることが確認できたんです。彼らを育てていけば組織は盤石になっていくと信じています。自分だって日商簿記3級も持たずにこの世界に入って、今や税理士法人のトップになっているのだから、どう化けるかなんて、わからないじゃないですか(笑)」
そう言って、二瓶氏は不敵な笑みを浮かべた。
死ぬまで仕事をしていたい
社内体制が落ち着いて、二瓶氏は再び営業に向き合う時を迎えている。
「規模をどうするか。そうインタビューされると2年前までは大きくするとはっきり言っていました。今はどうだろう。社員とお客様と共に幸せになりたい。それにはどういうかたちがいいのか。一生懸命社員を幸せにしようとがんばったら、いきなり辞められて死ぬほど辛かったので、今は模索中です。その答えはまだ出ていません。ただ、人は辞める時には辞めるけれど、一方で、ちゃんと優秀な人材がいてくれるんだとわかったんです。だからASSETSをどう大きくするかより、どうしたら楽しくなるかのほうに、今は重点を置いています」
突然の出来事に、二瓶氏はストレスで肺気胸と痛風を同時併発し2週間も入院した。特に通風は尿酸値6.0という通常は発症しないレベルでの発症だったから、当時のストレスの大きさが伺える。
そんな経験を経て、地元新潟の同級生から「あと2~3年で定年」と聞くと、「いいなあと思いますね。うらやましくて。給与は下がっても気分的に楽になれる」と、ちょっと弱気な発言をする。しかし、そこで終わらないのが二瓶氏だ。
「逆に私がそうなるにはどうすればいいか。やはり組織をもっときちんとしておかなければなりません。直近の目標として、売上高3億円でスタッフ30人、社員税理士4人まで育てる。でもね、究極はみんなが楽しくできればいいなと思っているんです。
今回の件でわかったのは、私は仕事が好きだということ。だからおそらく死ぬまで仕事を辞めないと思うんです。65歳になったら第一線から退いて、電卓叩いて資料をまとめる昔の生活に戻りたい。それ、意外と楽しいんですよ(笑)」
65歳まであと7~8年。それまで二瓶氏の挑戦は続く。
「私も8年越しで税理士資格を取ったから、仕事をしながら税理士になるのは非常に厳しいのはわかります。まだ1科目も取っていなくて仕事をしながら取るつもりの人は、少なくとも5年間は覚悟してほしい。
私は若い頃から税理士らしくないと言われてきました。だからこそ、自分が税理士に適性があるのかないのか、そこはよく見極めてきたと思います。皆さんも、一度税理士がどんな仕事をするのか、きちんと見てください。よければ、ぜひ一度ASSETSでアルバイトしてみてください」と、税理士受験生にメッセージを送る。
そして、これまでを振り返って次のように結んだ。
「税理士になって良かった。お客様に喜んでいただける成功事例があるから。子どもの運動会にも授業参観にも行けないなど支払った代償は、お客様からの信頼という大きな財産で返ってきた。一生懸命やっている時は楽しい。受験だってそれはそれで楽しかったわけです。その頃の彼女には税理士になると言ったら『サヨナラ』と言われてしまったけれど…。でもそれはそれで税理士という目標があって、20代の頃はその目標にガッチリと向かっていくだけだったから、真剣で楽しかったんです」
失敗体験は、人を一回りも二回りも大きく成長させる。辛い経験は二瓶氏に、多くのことを教えてくれた。転んでも起き上がる強さと前向きさ。それに加えた水面下の努力。そんな二瓶氏の目線は常に一歩も二歩も先を見ている。