日本のプロフェッショナル 日本の不動産鑑定士|2016年8月号
九本 博文氏
株式会社エル・シー・アール国土利用研究所 代表取締役 不動産鑑定士
九本 博文(くもと ひろぶみ)
1963年生まれ、兵庫県出身。京都大学工学部交通土木工学科卒。不動産鑑定士事務所に勤務しながら受験勉強をし、1989年、不動産鑑定士2次試験合格。1992年、不動産鑑定士登録、すぐに独立開業。現在に至る。
東京都知事登録業者744社中、売上第1位。国土交通大臣登録でも上位入り。
日本大学理工学部不動産鑑定士実務修習・実地演習指導鑑定士(2008年~)、亜細亜大学経済学部非常勤講師(不動産の行政法規 2009年~2015年3月)
風が吹いた時いかに風を掴むか。しぼんだ時にいかに耐え忍ぶか。
そのチャンスをうまく使うことが現在の成功につながっています。
厳正なる立場からの鑑定評価はもとより、そこから派生した土地の有効利用コンサルティングや不動産と金融を融合させた不動産証券化や投資信託分野まで、時代の変遷の中で不動産鑑定士の仕事は多岐に渡るようになってきた。こうした鑑定業界にあって、創業以来24年間、独立系不動産鑑定専業業者のスタンスを貫いているのが、東京都千代田区にあるエル・シー・アール国土利用研究所だ。特筆すべきは、東京都知事登録業者744社の中で売上No.1、さらに、国土交通大臣登録業者を加えても上位に入る実績を持っていることだ。エル・シー・アール国土利用研究所の代表取締役、不動産鑑定士・九本博文氏に、鑑定士になった経緯と売上3億円規模への足跡、そして業界としての展望と不動産鑑定士資格について語っていただいた。
証券化鑑定評価実務に精通
1964(昭和39)年に「不動産の鑑定評価に関する法律」が施行されて以来、鑑定評価の中心となってきたのは国や地方自治体から依頼される地価公示、地価調査、相続税評価、固定資産税評価、用地買収のための評価といった公的評価だった。その流れを構造変革させたのは、2001年に端を発した不動産証券化、不動産投資信託である。ここから不動産鑑定士(以下、鑑定士)の業容・業態は大きく変貌し、業務の裾野は多岐に渡るようになった。
このように不動産は、時代の空気に呼応してその価値を変えてきたと言っていい。それまでは「土地」だけの評価だった鑑定業務に、そこに建つ「建物」、すなわち複合不動産。いわゆるオフィスビルやマンション、ショッピングセンター、物流施設等、賃貸不動産が産み出す賃料や売却益などの収益を、社債や株式などの証券を発行するSPC(特定目的会社)を介して投資家に分配する仕組みが欧米から入ってきたのである。この仕組みが「不動産の証券化」だ。こうした証券化対象不動産を取得・運用・リファイナンスする時など、様々な場面で鑑定士による鑑定評価が必要となってくる。そこで時代の波しぶきを浴びて台頭してきたのが「証券化鑑定評価実務に精通した鑑定士たち」だ。彼らが中心となり、最新の鑑定技術を駆使した新たな時代の波が創り出されていった。
エル・シー・アール国土利用研究所(以下エル・シー・アール)の代表・九本博文氏は、そんな時代の波頭に立って台頭してきた、東京都知事登録の不動産鑑定事務所の中で売上No.1、トップを走る鑑定士だ。「かつては信託銀行、不動産系の会社との兼業会社が目をひきましたが、今では外資系傘下の会社も見られるように業界は変わりました。専業独立系事務所では、昭和期創業の老舗会社が上位を占めるのですが、平成生まれの後発組では我々が最大手です」と自負する。元来、責任感が強く真面目な性格。今回の取材に際しても「地味なイメージが強い鑑定士。今回の取材は一度きりのチャンスだから、この業界に興味を持ってもらえるような話をしたい」と、慎重に言葉を選びながら、鑑定業務のこれまでと今後について語ってくれた。
神戸市生まれで京都大学工学部交通土木工学科卒の九本氏は、大学を出てすぐ鑑定会社に勤務し、28歳で鑑定士資格を取得。登録後すぐに独立した「即独」派だ。開業24年目、今年52歳になる。
九本氏が鑑定士をめざそうと決めたのは、大学での専攻が建築・土木系であったことはもちろん、鑑定士になった先輩の影響を受けたことが大きかった。
「大手志向・安定志向でもなかったので、同級生の中ではどちらかというと異色な存在でした。鑑定士資格を求めたのは、不動産に対する興味があったからです。また組織の中で立身出世するよりも、自己完結できる専門職業家になることへの憧れと、技量切磋の末、経済的成功やステイタスを手にしたいといった『密かな野心』もありました。認知度のある業界でもなかったのでやや異端ではあったのですが、最初からこの職業だと決め込んで、資格を取ったら世の中で認知されるような仕事をしよう。それが大学生から社会人になりかけの頃に考えたことでした」
鑑定士をめざして上京し、実務の傍ら受験指導校に通っていた九本氏は、理系出身者でありながら文系資格をめざしたことに由来する異分野への戸惑いや膨大な暗記力を求められる負荷、論述式の慣れないアウトプット、答練(答案練習)と、押し寄せる難題に悩まされたというが、1989年に見事合格。3次試験を経て、1991年に資格取得。1992年に登録し、すぐに独立開業に至った。
後発者であるがゆえの開業当初の壁
鑑定士業界に入るなら、いずれは開業。昭和から平成初期のバブル期は、「鑑定士資格を取った以上は自分で会社を作る」のが主流で、合格したら大なり小なり一国一城の主をめざす人がほとんど。勤務先に「独立します」と言うと、一度は引き止められるもののそのうち「仕方ないな」と認知されて独立。それがお決まりのコースだった。
九本氏も、鑑定士事務所2社に勤務して実務経験を積み上げていた。1社は公共系の仕事のみ、もう1社は民間系の仕事もありながら、当時華々しく施行されていた国土利用計画法による土地評価を中心とする事務所だった。
「公共系の仕事が主流で、民間の仕事を取ってくる思考はほとんどなかった時代です。公共系の仕事はいわば年功序列。当時は資格を取って、数年間働いて、ハンコを押してもらう実務補習期間が必要でした。いわば徒弟制度的な側面もあって。もう死語ですけど丁稚奉公ですね。今考えるとウェットな時代でした」
九本氏が登録した当時、すでにバブルは崩壊し、不動産業の最盛期は過ぎていた。しかし、まだまだ鑑定業はバブルのなごりで多くの需要があった時期だ。
「先なんて全く見えなかったです。1992年から2004年までずっとデフレが続き、年々地価は下がるし不動産取引も減っていく。自分の将来と地価の下落がダブって見えた時代でした」
そんな状況下、九本氏は独立独歩でやっていく決心をしたのである。
大半の鑑定士は個人で開業しているが、元来土地に根づいた仕事のため所在も偏重気味だし、税理士のように顧問制度もないので、仕事の入りが不安定。そんな中で新たに独立すると、ゼロから顧客開拓をしなければならない。ルート営業のように地道に足で回って開拓する。いくら技量があっても、販売ルートも知名度も実績もないとなれば先輩達に負けてしまう。劣後すると元請業者から下請け業者に成り下がり、質の低迷を招くという負のスパイラルが待っている。この負の循環を乗り越えることが、新規開業鑑定士の大きな課題となっていた。
そんな状況から、どのようにして新参者としてやっていくのか。
九本氏も独立当初は、やりたい仕事を取れることなどまずなく、紹介先も販路も見えなかったと振り返る。「かなりしんどかった」というのが開業当時の実感だ。
「でも当時を振り返れば、周りの方も同じで、それはもう当たり前。数年の間に、発注者の論理なり、業界の序列なり、鑑定評価の制約なりを徐々に自覚していって、やっと自分の小さなテリトリーを創っていけたと思っています。足で稼いだ土地事例を作って役所に営業をかけたり、ベテラン売れっ子先生の下請けに回ったり、繁忙期と閑散期の単価を調整したり。厳しいですが、いくら歌がうまくても、売れなければどうしようもない。だから下請けも引き受けた。それも売上確保のためには必要なのです」
しかし、まだその後がある。
「世に出るために雌伏しながら、この業界の特性について何となくわかってきたのが開業5年目。その頃に風が吹き始めたのです」
新たな風を掴め
鑑定士業界の最大の特性は「人による差がないこと」だ。ライセンスを与えられた人間は、法律に則って鑑定評価を行うので、その結果に差があってはならないという大前提がある。依頼する鑑定士によって評価額に差が出てしまっては、とんでもないことになってしまうからだ。
「しかし、鑑定士は個人業者が多いので、何か『強み』がなければ埋没してしまう」。そこに気付いたのが開業5年目。九本氏は「社会的に新しいジャンルの仕事が生まれた時に、そこにいち早く入り込まないと、知名度のないニューカマーは仕事が取れない」という結論に至った。「新たな風を掴め」。そんな思いでアンテナを立て、九本氏は世の中の新しい潮目を待っていた。
そして、バブル崩壊後、日本で大量に発行された不良債権の処理不能により、北海道拓殖銀行、山一證券破綻という「日本の金融機関神話崩壊」が起こった。積み残した不良債権を「宝の山」と1997年頃から乗り込んできたのが外資系企業とファンドだった。彼らは不良債権を購入し日本の不動産取引を全く新しい手法で変えていった。それが「不動産の証券化」、J-REITであり、デューデリジェンスである。
それまで日本に馴染みのなかったデューデリジェンスは、公共系の評価と異なり、将来その不動産から生じるであろう経済価値の算定を行い、投資判断をするために不動産を幅広い角度で調査する、クライアント側に立った評価手法だ。この日本の不動産の新しい波「デューデリジェンス」の出現によって、鑑定士業界はこれまでの権威主義から実力主義の時代に変貌していったのである。
「時代が変わった」と九本氏が感じたのは、この1997年頃のことだ。バブル崩壊後の日本で、それまでの「地価は必ず上昇する」という土地神話が完全に崩壊し、様々な経済構造が変化し始めた。待っていたチャンスの時。このタイミングに九本氏は、先手必勝で乗り出した。
「今でこそ当たり前ですが、データを駆使してメールで顧客対応をし、タイトな納期にも耐えて、ロールアップミーティングと呼ばれる報告会で長時間の質疑に答える。売れる価格はもとより、誰が買うのか、買手が見つかるまでの期間はどれくらい見ればいいのかなど、外資系投資家からの質問やリクエストは想像以上に厳しく、これまでの鑑定会社の調査では対応できない水準でしたが、後発組だった私はハングリーだったこともあり、結果的に先駆者となることができて、仕事は途切れませんでした」と、九本氏は当時の劇的な変化を表現する。
証券化、流動化とよばれる不動産活況の時代は、1997~2006年頃、リーマンショック前まで続き、日本の不動産市況は10数年ぶりに上昇した。まさに九本氏が風を掴んだ瞬間だった。
その間に、倒産した大手金融機関や証券会社から多くの人材が外資系に流れていった。九本氏は開業した1992~2002年の10年間に、同年代の彼らと出会い、芽生えたつながりを大切にしていった。縁故先から転職した人が新たな依頼者となり、さらなる紹介へと広がる良い流れを作ることができたのである。蓄えた技術、備わった経験が一気に開花し、仕事を選べるようになったという。
「平常期に業績を上げることも大事ですが、いかに風がある時に帆をあげ、乗っていけるか。私はそのチャンスをうまく掴めたので、個人事務所から鑑定会社への扉が開き、ひとつの成功を得ました」
九本氏はそこを「転換期」と位置づけている。
有資格者の「やりがい」と経営者としての「達成感」
現在エル・シー・アールは社員15名、アルバイトを含めると総勢20名。鑑定士11名、合格者1名が鑑定評価と派生業務を行い、4名のアシスタントが資料整理・作成を担当する。100件程度の評価も対応可能という、鑑定事務所としてはかなり大型の組織だ。
「ざっくり言うと、年間売上500万円のクライアントが約60社あり、売上3億円を12名の有資格者とアシスタントで賄っているという規模の会社です」と、九本氏はその特徴を端的に紹介してくれた。
クライアント60社の詳細は、オフィスのほかホテル再開発や倉庫なども含めた証券化案件が全体の40~50%、企業会計で要請される財務諸表の時価関連が10~15%、担保、与信を含めた金融案件が10%弱、民事再生法、会社更生法といった法的整理を伴う再生案件が10%となっている。個人向けには昨今話題の相続関係が数%、伝統的な公共関連の評価も多少はあるが、ほぼ9割が法人相手だ。この60社は3年ほどで2割が入れ替わり、疎遠になる先もあれば、新たに縁を紡げる依頼先もできて、年間数%の割合で顧客は増えているという。現在の顧客やかつての依頼先も含めて、その営業周りのすべては九本氏が担当しており、仕事の受付時と鑑定評価書の納品時の少なくとも2回は、顧客と顔を合わせてきたという。
より大手の鑑定会社には、その会社にふさわしい営業方針や要員が確保されているのだろうが、九本氏は一流の鑑定会社と認められてから15年間、売上3億円分に当たる顧客との接点を開拓し、維持し、繋ぎ留めてきた。逆風や会社運営の苦労を乗り越えてきた今は、何を考えているのだろうか。
「仕事が減っていくとき、どのように工夫すればいいのか。明確な答えはありませんが、暴風圏に突入したときに、最初に情報がわかるのは、コックピットで対応する経営陣です。決算で赤字になっても会社は潰れませんが、明日の資金がなくなれば、人も会社もなくなってしまう。逆風下の累積赤字は、順風満帆時の黒字によって取り戻せます。鑑定業も不動産業の一部として、景気とは切っても切れないので、大きな投資や売買の活性に合わせ、役に立っていかないといけません。鑑定業は不動産の流通、金融の実態に付随するもの。そこをうまく取り込めれば業績も上がるのですが、景気の波のように、鑑定業は非常に売上のボラティリティー(変動性)が大きな業種です。証券化案件や財務諸表の時価評価は、一度受注すれば数年間継続して評価に携われることが多いので、固定費用の捻出がある程度読めるようになります」
証券化に携わるようになってから業務のほとんどが法人対象になった。こうしたクライアント業務の要請もあり、体制も変わっていくのであろうが、その会社の強みは何かを意識することが大切だと、九本氏は分析する。
「地価公示や地価調査をはじめとした公共系の仕事は、やはり地域密着型です。例えば、多摩地区に根づいた鑑定士はその地元の仕事に馴染み、当然その地域に貢献していきます。ただそれが法人相手になってくると東京圏全体の仕事となり、証券化が入ってくるとさらにオールジャパンが対象になってくるので、テリトリーが広がってくる。つまり地域密着型の業務と証券化の業務では活動範囲が違うし、窓口も違ってくる。地元の公共団体は地元に精通した鑑定士に仕事を依頼したいでしょうから、そうした役所を対象に営業を行うことになる。証券化の窓口は、ほぼ東京の法人なので、参入・退出される方々の動向を含めて、情報を追っていかないといけない。この窓口への訴求も、単純な挨拶回りの繰り返しで突破できるというものではなく、有資格者の持つ強みに期待感を抱いていただかないと、認めてもらえないでしょう」
ところで九本氏にとって、鑑定士としてのやりがいとは何であろうか。
九本氏が言うには「ビジネス(経営)とライセンス(資格)が交錯し、均衡すること」だという。
「有資格者・職人として、大きく報道される案件に携われたときや、かつての依頼先から数年ぶりに発注いただいたときなどは、特に喜びを実感できますね。評価書作成の過程で、自分の好奇心と社会で求められる成果物がマッチングすれば、職業専門家として、スペシャリストとして、特化できる喜びもあります」
有資格者としてのやりがいは、さらに鑑定士資格を取ったあとにも広がる可能性がある。鑑定のフィールド、すなわち鑑定評価書を作る分野に留まることなく、資格を取得する際に培ったスキルをもとに、不動産業全般での活躍や異業種の不動産関連分野などへの需要があるのだ。
「すべての鑑定士が鑑定評価書を書くことに収まっているわけではありません。鑑定を礎に、不動産という括りの中で活躍する方を見てきました。東京証券取引所上場会社の社長になった人もいれば、観光事業を始めてかなり広い認知度を築いた人もおられます。不動産投資業まで含めれば、実業面で進出、成功した人は多数いらっしゃいます」
一方で、経営者として組織を束ねる立場になると味わえるのが「達成感」だ。財務諸表で「決算よければよし」と成果が出た時のやりがいや、大口の商談が纏まったときの充実感である。再度、景気の話へと続いた。
「リーマンショック後の谷間があり、今はまた東京オリンピック・パラリンピックに向かった風が吹いていますが、良い時もあれば悪い時もある。その悪い時をどう凌いでいくのか。過去の不況期の脱出経験則であったり、その会社の財務力であったり。有資格者の立場と、有資格者を束ねる立場、両方の立場を持っているからこそできることもあると思います。職人の気持ちがわからなければ職人を束ねることはできないし、鑑定評価書を作成する苦労を忘れては、無味乾燥な会社になってしまいます。かといって職人の立場だけに甘んじてしまうと、依頼者が期待する本来の目的から逸れて、自身のこだわりが強くなってしまうということも経験しました。凌いだその先に、チャンスが貰える依頼者を見つけ、大きな案件を取ってきて、それによって会社に経済的効果をもたらしたいと考えてきました」
職人を束ねる立場としてメンバーの声を拾っていかなければならない使命もあるが、それも一種のやりがいと言っていいだろう。そして最後は「有資格者として敬われ、求められて頼られる。そうした評価を受けることによって、勤労意欲がわき続け、成功経験を重ねることもでき、依頼者に感謝されるアドバイスもできて、うまく世の中の役に立ってきた自負が、私の仕事の基本でしょうか。もちろんすべての案件には当てはまりませんが」と、九本氏はルーツに立ち返って結論づけた。
個人の今後、組織の今後
東京の鑑定士としてトップランナーとなった九本氏は、次にどのような目標を掲げているのだろう。
「個人の今後は、専門家としての賞味期限を感じています。年齢を重ねると、経験やノウハウがたまってくる反面、処理能力の低下やクライアント自身の若返りで、発注担当者レベルでの対応は難しくなってくるでしょう。任せられる人が出てきたら、権限を委譲して任せよう。そうすれば自分は別の立ち位置に立って物事を見られるし、より良い判断をできると考えていました。そして今はその体制ができてきたので、任せていくことにしました。
組織の今後は、継続性を大切に考えています。働いている方の自主性や働き方の多様性を尊重し、働きがいのある組織にしたいです。鑑定業は粗利や効率がとびきり良い業種でもなく、どちらかというと地道な作業を人海戦術でこなしている産業ですが、幸いにも歩合制や出来高ではなく、取り決めた報酬をきっちりと支払っていただける、不動産業の中では比較的綺麗な仕事です。やっていることも毎年度それほど変わりません。24年間営業をしてきましたので、ここから旅立った退職者やOB鑑定士がどのように貢献してくださり、今、何をされているのか。鑑定士の求人を見て訪問いただいた方が、ここでどのように働きたいのか。何より、今働いている方の希望は何なのか、それをどこまで叶えてあげられるのか。それらをわきまえながら、有資格者が働きやすい環境を整えて、組織を継承していきたいと考えています。
例えば、補助者やアルバイトの活用により効率的な分業を促していますし、在職の12名の有資格者には『残業なし』を希望しているメンバーがおりますので、そのメンバーにはそのような体系を用意する。あるいはもっと仕事に邁進して、かつそれなりのインセンティブをもらいたいというメンバーにはそういう働き方を選んでもらう。それぞれが希望する個々の働き方を汲み取っていける、経済条件が多様で、納得感の高い組織を目指します」
人材採用で悩むのは「やりたいことと任せられることのマッチング」についてだという。
「来るものは拒まず、お話は聞かせていただいています。こちらで選ぶというより、どういう働き方をしたいのかをお聞きしたいですね。というのは、不動産業に入ってこられる方は年々少なくなってきています。これは、少子高齢化、空き家問題、人口偏重の問題と、様々な背景を避けて通れません。また、これまで申し上げてきたように不動産業の中で働き方に多様性が出てきた一方で、今後衰退していく部分もある。鑑定業界的にも人手不足ですが、そうした状況を踏まえた上で来てくださる方がいればぜひとも歓迎したいですね」と、採用には柔軟な姿勢で臨んでいる。
聞け、鑑定業界の現実
実は九本氏には、合格後に受験指導に携わった経験もある。その際「採点者側に回ったことで生徒たちにいろいろなことを伝えられた」と感じた。講師業はその後も続けられ、複数の信託銀行での派遣講師、大学非常勤講師、実務修習・実地演習指導鑑定士と教育する分野を変えて、現在まで教育指導をひとつの取り組みとして行っている。講師として、九本氏は業界の現実を伝えたいと言う。
「今の受験生は、資格を取得しただけで生涯の安泰が得られるわけではないことに気がついています。資格をどう活用し、どのように豊かな生活を手にいれるのか。当たり前ですが、資格を取ったあとは個人の属性の問題になってきます。せっかく資格を取っても競争社会が待ち受けているのなら、わざわざ資格を取らずに会社組織や公務員試験の道に進もうという傾向も強くなりました。
確かに、鑑定業界はITやWeb業界のように、倍々ゲームで飛躍する業態ではありません。しかし、鑑定士は我が国の根幹的部分を支えている重要な役割を担う士業のひとつであり、鑑定評価制度は社会的インフラ基盤として国民に広く認知され活用されていますし、その鑑定評価を唯一行うことができる鑑定士資格がなくなることはありません。その永久性を信じて、受験をめざされてはいかがでしょうか。そして鑑定士資格を取ったあとは、自分がどうなりたいか、どう活躍したいかによって、道は広がります。これは組織社会では決して経験できないことです。
それから、受験期に抱いていた希望と資格を取った後の現実の生活には、ギャップがあるかもしれません。資格の活用方法や希望する将来設計の実現性については、本人の資質と努力次第です。ですが、初心を忘れず職業専門家として働くことが資格を取得した本来の意義ですし、その後に経済的成功を収めてくだされば、先輩としてこれほど嬉しいことはありません」
国から独占権を与えられている資格、そこに軸足があるのは事実。そこでの使命感が第一義である。ただし誰がやっても評価基準という国が作った方法論を踏み外してはならない。そこに制約があり、それがビジネスの難しさでもあるが、職業家として大切にされ、世の中であたたかく迎えられている業界であることも間違いない。成果主義でも歩合制でもなく、きちんと鑑定評価を行えばそれに見合った報酬がもらえる世界でもある。
「やはり成熟業種。そこに無限の夢や希望を与え続けるのも無謀なので、大事なのはこの業態の特性を踏まえなければいけないということ。その両面を伝えることが大事ですね」と九本氏は、真摯に現実を伝えようとする。
証券化とデューデリジェンスという、鑑定側ではなくクライアント側に立った判断。その不動産は投資するに値するものか、いくらで購入し、いくらで貸し出すのがベストなのか。不動産証券化の鑑定評価が必要なのは投資家を守るためだ。この大儀と組織の有資格者の未来のために、九本氏は走り続けている。