特集 USCPA資格を活かして市議会議員に

 
康 純香氏
Profile

越川 雅史氏

市川市議会議員
USCPA(米国公認会計士)

越川 雅史(こしかわ まさふみ)
1973年生まれ、千葉県市川市出身。1997年、慶應義塾大学法学部政治学科卒。同年、株式会社福田組に入社し5年間勤務。2002年、USCPAライセンスを取得、あずさ監査法人(当時は朝日監査法人。アメリカの大手会計事務所アーサー・アンダーセンと提携)入所。2005年7月よりニューヨーク駐在員となりKPMG LLP(ニューヨーク事務所)勤務。2008年、ニューヨーク駐在を完了し帰国、あずさ監査法人復帰。2009年、株式会社越川雅史経営研究所設立。2011年、千葉県市川市議会議員選挙に初当選。2015年、市川市議会議員に再選、2019年に3選。現在3期目の議員生活を送る。

幼い頃からの夢を叶えるためにめざしたUSCPA。
資格を使いこなし、一歩ずつ、着実に夢を実現する。

 幼い頃から「将来は政治家になる」と公言していた越川雅史氏は、37歳で千葉県市川市議会議員選挙に出馬し、無所属の新人議員でただひとり「初挑戦・初当選」を果たした。以来、「政治家と経営コンサルタントの二刀流」を貫き、議会では税金の無駄遣いを厳しく追及し3期目を迎える。政治家・越川氏のバックボーンとなっているのは、USCPA(米国公認会計士)として監査法人に勤務し、内部監査に従事したあとに経営コンサルタントとして独立したキャリアだ。市議会議員となって9年目を迎えた今でも、「議員以外の仕事も継続していることが誇り」と話す越川氏に、USCPA取得から始まった夢の実現についてうかがった。

「将来の夢は、政治家になること」

──越川さんはUSCPAで市議会議員という異色の経歴をお持ちです。めざした経緯を教えていただけますか。

越川 小学生のとき、先生から「お前たちがクラスのリーダーになれ」と指名を受けた中の1人だったことが、今から思えば政治家を志したきっかけかもしれません。その先生からは、「人の名前には、込められた思いがあるから、それを意識しながら生きろ」とも言われて。「雅史」という名前は「優雅」の「雅」に「歴史」の「史」だということ、そして歴史の本を読むことが好きだったこともあいまって、幼心にも「自分も優雅に生きて歴史に名を刻みたい」「世の中に問題が起きたときにはただ傍観者として見ているだけでなく、そこに関わっていける人間でありたい」と思うようになりました。また、所属していた少年野球チームの監督が区議会議員だったこともあり、政治家や選挙を身近に感じていたのかもしれません。

──小学生の頃から政治家をめざしていたのですね。

越川 そうですね。ただ、小さな男の子が「プロ野球選手になりたい」と言えば「いいね、がんばって」と言われますが、「政治家になりたい」と言うと「なんで?偉くなりたいの?有名になりたいの?お金持ちになりたいの?」と言われるばかり。中学・高校時代には「日米関係も経済も考えたことないヤツが政治家になるなんて」と言われ、誰からも素直に「いいね、夢があって」と言われなかったことが、この夢の辛いところです(笑)。結局、市議会議員に当選するまで、ずっとそんなことを言われていましたね。

──学生時代は何かされていたのですか。

越川 高校時代から選挙のお手伝いをしていました。大学も慶應義塾大学の法学部政治学科に入り、政治学科ゼミナール委員長として、故・橋本龍太郎元首相や故・浜田幸一氏の講演会を主催したこともあります。政治家の秘書になることも考えましたが、秘書というのは千差万別で、田中角栄氏秘書の故・早坂茂三氏のように政策に尽力できる方もいれば、単に運転手や飲み会の代理出席を生業としている秘書もいます。それなら、民間で仕事をしてきた専門性のある人間のほうが、政策にも携われて、議員になっても活躍できるのではないかと考えて、民間企業への就職を決めました。

──当時は資格の取得はまったく考えなかったのですか。

越川 政治家になるというゴールがあるので、そのアプローチとして弁護士から議員秘書、そして官僚にという道は考えました。受験指導校にも申し込んだのですが、自らの方向性に迷って結局何もしませんでした。でも、大学4年生のとき優秀な仲間が司法試験に合格し、かつ公務員試験にも合格して、官庁からも民間企業からも内定をもらって、そこで初めて「俺は何がやりたいんだろう」と悩んでいる姿を横目に見たときに、「そうか、悩むってこういうことなんだ。選択肢がない状況では、悩む資格すらないんだ」と気づかされました。この気づきが、のちの資格取得につながりました。私の大学時代は、お金を使っただけで勉強はまったくせずに、とりあえず最後に受けた行政書士試験も落ちるという、プチ挫折というか、努力もしていないので挫折にもならない、たださぼっていただけという時期でした。

──卒業後の進路はどうされましたか。

越川 修業のために民間企業で働くと決め、田中角栄氏への憧れから新潟に本店を置くゼネコンに就職しました。田中角栄氏と一緒に大きくなっていった会社で、政治的なつながりも濃く、かつ当時はODA(政府開発援助)関連の海外での仕事もしていました。
 最初の赴任先は仙台にある東北支店。そこで1年間経理・財務に携わり、2~4年目には青森の工事現場に行きました。これが人生の転機でした。資格取得に取り組み始めたのもこの時期です。

アメリカの公認会計士に決めた!

──どのようなところが転機となったのですか。

越川 就職して仙台でひとりになって、そこでの1年間は、唯一の楽しみが夜家に帰って観るプロ野球という生活でした。
 青森に転勤してからは、現場は黒石市という当時人口4万人の街になりました。半農半土建業の人が現場にたくさんいて、「おまえ東京の大学出てるっていうけど、そんなヤツがこんなところにいるわけない」と大学を出たことさえまともに信じてもらえない。学生時代の仲間は日本経済新聞に載るような仕事をしているのに、俺は嘘つき呼ばわりされながら何やってるんだろう」と自問自答する孤独な日々でした。自信もなくて「肩書きや学歴を取っ払われたら、自分なんて所詮こんなもんなんだな」と落ち込んでいました。その一方で、「越川さんが青森にいるなら遊びに行きます」とわざわざ遊びに来てくれる現役の後輩もいて、「自分に期待してくれている人がいるのなら、もっと自分を磨かないとダメだ」とも感じていました。

 ちょうど被選挙権を得られる25歳の頃、来し方行く末を考えました。「自分は今後どうすればいいんだろう。このままゼネコンにいていいのか。転職するにしてもどうすればいいんだろう」と悩んでいるときに、たまたま寄った本屋で見つけたのが「USCPA」でした。政治家になったら日本から出ることができないし、政治家になっても「外から日本を見たことないヤツが何言ってるんだ」と絶対に言われると思ったので、一度海外で働きたいという思いがありました。加えて私が社会人になった1997年は、消費税率が3%から5%に引き上げられ、北海道拓殖銀行が破綻し、山一證券がなくなった年でした。金融恐慌の中で「これからは経済や金融や財政に明るい人間でなければ政治のかじ取りもできないのではないか。ビジネスマンとして国際的に活躍している人が政治の世界で求められるのではないか」と感じたのです。「アメリカの公認会計士」という存在を知って、「この資格を取って転職できれば、経理の経験も活きるし、大学受験でがんばった英語を活かして海外でも働ける。そして国際派ビジネスマンとして選挙に出られる。俺はこれをやるしかない!」と決意したのです。

 ただ、司法試験をめざそうとしたときのこともあって、「やるかやらないかわからないのに、資格取得に数十万円も払うのはいやだな」とも思っていました。そんなとき、2度も車をぶつけてしまい、修理代として何十万円も支払うという出来事が……。でも、これをきっかけに「もう1回車をぶつけたと思えば、意味があることのためになら、お金を出してもいいんじゃないか」と考えるようになって、翌日新幹線に乗って東京の受験指導校で通信講座を申し込んだのです。基本的に運命は受け止める性格なので、車をぶつけたことにも何か意味があるんじゃないかと考え、受講の決断ができました。こうしてUSCPAの勉強をスタートしました。

──当時はUSCPAを受験するには、アメリカまで行かなければなりませんでした。どのようにされたのですか。

越川 何が大変だったかというと、20年前の地方のゼネコンで「アメリカの資格試験を受けたいので有給休暇をください」なんてなかなか言える時代ではなかったことです。有給休暇の取得とはいえ、かなりハードルは高かったのですが、ラッキーなことに現場の所長が理解のある方で、「こいつはのびのび育てたほうがいいんだ」とバックアップしてくれました。おかげで10日ほど休みが取れてアメリカに渡ることができました。
 受験するからには、名刺に「USCPA」と書けるようにサーティフィケート(登録証書)まで取得したかったので、その取得に実務経験を要しないイリノイ州での受験にしました。全部で4回の試験を受けましたが、最初の2回はハワイ、残りの2回はイリノイ州で受けて合格しました。

※2019年現在、イリノイ州でのサーティフィケートの取得には実務経験が必要です。

──仕事をしながら受験勉強をされたのですか。

越川 そうです。私が一番伝えたいのは「働きながら勉強するからこそ意味がある」ということです。USCPA資格を取得したからといって、その瞬間にバラ色の人生になるわけではありません。責任感を持って仕事をこなしながら、「長い休みを取るにはどうしたらいいんだろう」「仕事に支障がないように合格をめざすにはどうやってスケジュールを立てたらいいんだろう」と考えることがマネジメントスキルになるんです。当時はよく「3ヵ月でスピード合格」「一発合格」というキャッチフレーズを受験指導校が掲げていましたが、どこの監査法人の採用広告にも「一発合格者採用」「短期合格者募集」とは書いてありません。大事なのは、何の仕事を何年やったかです。「経理を2年経験し、その後受験に専念しました」だと実務経験2年になりますが、辞めずに2年間勉強しながら働いていれば実務経験は4年。これは大きな差になります。働きながら勉強するのは辛くて精神的にもきついことですが、仕事を辞めないでがんばることで、やりくりを経験して人間的にも成長できるのではないでしょうか。

監査法人時代に憧れのアメリカ駐在

──28歳でUSCPA試験に合格されてからのステップを教えてください。

越川 2001年に合格し、あずさ監査法人(当時は朝日監査法人。アメリカの大手会計事務所アーサー・アンダーセンと提携)に入りました。2科目合格で内定をもらい、そのあとで残り2科目を受験して入社後の発表で最終合格しました。
 入所後はビジネスリスクコンサルティング事業部で内部監査とコンプライアンスサービスに従事し、2003年からはインチャージとして現場を預かる立場になりました。当時はまだサーベンス・オクスリー法(SOX法)がなかった時代で、内部監査とコンプライアンスの重要性が言われ始めた頃です。私が一貫してやってきたのは、ひと言で表せば「内部管理体制の構築・高度化支援業務」ですね。

 2002年には仙台の包括外部監査の補助者として行政の監査にも携わり、2003年には内部監査上の必要性から公認内部監査人(CIA)資格も取得しました。
 その後2005年7月からは、いよいよニューヨーク駐在員となって渡米し、KPMG LLPニューヨーク事務所に勤務しました。そこで日米の企業に対して内部監査及び内部統制に関わるアドバイザリー業務に携わることになり、海外で働くという夢が実現しました。

──アメリカ駐在はどのような経緯で決まったのですか。

越川 日本の監査法人から海外駐在に行くのは、日本の公認会計士か監査部門の人間がメインで、コンサルティング部門から行くことはまずなかったのですが、SOX法が施行され、その関連サービスの特需が起こったことから抜擢されました。日本企業の現地法人もSOX法に準拠しなければならなくなり、ニューヨーク事務所で経験者を求めていたのです。東京事務所でも外資系企業の案件を受けており、私も関わっていました。最初は英会話もままならない状態でしたが次第に慣れてきて、「越川なら外国人に対しても、ものおじしないで対等に渡り合える」と判断していただき、駐在が決まりました。

 結局、私はうまくUSCPA資格を使ったというか、監査は未経験なのに監査法人に採用してもらい、海外駐在を勝ち取って、最後に独立することができました。日本の公認会計士として活躍していた人がUSCPA資格も取るというパターンはあるけれど、USCPAしか持っていないのに独立して経営コンサルタントをしている。私ほどUSCPAの資格を使いこなしている日本人はいないんじゃないかと思います(笑)。

コンサルタントとして独立開業

──アメリカ駐在を実現されたあとはどうされましたか。

越川 アメリカではSOX法に基づく業務をメインに、日米両国の法律に基づく内部監査と内部統制に関わるアドバイザリーサービスに従事し、2008年、2年半の駐在を終えて帰国し、あずさ監査法人に復帰して金融系上場企業の内部監査支援業務に携わりました。

 監査法人ではその後2年間コンサルティングに携りました。私はクライアントに寄り添う気持ちがなければ政治家になっても有権者に寄り添えないと考えていたため、常に「どうすればクライアントの方々が喜ぶだろうか」と思案していました。例えばSOX法のドキュメントを作った副産物として、課題を整理した資料を作ってご説明すると、とても喜んでいただけました。知識や経験で勝負するというより気を利かせる感じですね。ただ、監査法人は契約に基づいた業務提供をしているので、「お客様と好き勝手なことをするな!」と法人内での評価はかなり低かったです。お客様からの評判はとてもよかったんですが(笑)。

──法人とクライアントとで評価が分れたのですね。

越川 そうなんです。そうこうするうちに気がつけば36歳になっていて、政治家になりたいならいつまでもこのままではダメだと思いました。ちょうどその頃に市長選挙があって、「候補者を公募しているからやってみないか」という話がありました。そこで「失敗するなら若いうちがいいし、一応お客様に認めてもらえたんだから私にもやる資格はあるな」と思ったんです。大学生の時の目標が「スキルを身につけ政策論でも勝負できる議員をめざす」だったので、その意味ではコンサルタントとしてお客様に通用したという自信は持っていい。そして30代での挑戦で失敗するよりも、40代での挑戦で失敗するほうがダメージは大きいんじゃないかと考えました。結局市長選挙には出馬しませんでしたが、政治家になるために監査法人は辞めることにしました。

──ついに政治家になるという夢に向かって歩み始めるのですね。

越川 そうなんです。当時担当していたクライアントの監査部長に退職を伝えに行ったところ、
「おめでとう。越川さん独立するんでしょう」
「いや全然そんなことは考えていません。政治家になろうと思っています」
「でも越川さんちは政治家の家系でもないしお金あるの?」
「いえ、全然ないです」
「じゃあ会社作りなさいよ、仕事出すから。私はてっきり独立したくてがんばってるのかと思っていた。辞めるのなら好都合だから会社作ってね」
という話になって。

 私も辞めて仕事がなくなるので、とりあえず会社を作って政治活動と両立していこうと、2009年に越川雅史経営研究所を設立し、独立した経営コンサルタントとしてスタートしました。
 こうして8年間勤務した監査法人を退職して独立し、安定した生活を捨てて政治家への道を歩むことになりました。今でも経営コンサルタントの仕事は続けていて、1日も失業していないのが私の中の小さな誇りになっています。

二刀流でやることこそ価値がある

──政治家と経営コンサルタントの両輪で人生の再スタートを切られました。そこからの活動についてお聞かせください。

越川 2011年4月に実施された市川市議会議員選挙に無所属で立候補し、無所属の新人でただひとり、「初挑戦・初当選」を果たすことができました。定数42名中の11位だったので、無名の新人としてはまずまずの滑り出しだったと思います。

──政治家としての活動のスタートは、なぜ市議会議員だったのですか。

越川 政治家をめざしてきたので、市議会議員の次は県議会議員、その次は衆議院議員と、国政に向けてのステップを考えていたのです。ただ今の時代、小選挙区に無所属で出るのはお金もかかりますし、投票率が低い中で無所属の新人がぽっと出て当選することはあり得ません。新党ブームはあっても無所属ブームはないんです。端から眺めているのといざ自分で準備しながらやってみるのとは大違いで、市議会議員選挙であってもかなり大変だと感じました。

 選挙の何が難しいかというと、何人もの立候補者がいる中で「誰かの1番」にならなければ1票にもならないことです。「あの人もいいし、この人もいいし、越川くんもいいよね」と上位3番には入っていても、1番でなければ1票にはなりません。それを積み上げないと当選はできないんです。そこが難しい点で、私のような政党のバックアップがない場合はいち個人で自分の名前を浸透させていかなければなりません。

──そのような中でどのように市議会議員選挙を勝ち抜いてこられたのでしょう。

越川 まず、ポスターを読ませるものにしました。そこに「米国公認会計士」の肩書も入れて、強みの「ずっとちゃんと働いてきた」ことをアピールしました。「ビジネスの世界で議員報酬よりも高い請求書をクライアントに提出してきました」「議員になっても相手が企業から市役所に変わるだけで、私はそれだけのバリューを出します」と訴えました。興味を持った有権者が私の経歴を見れば、政治家になるために積み上げてきたキャリアがあって、そこにウソ臭さはないと納得してもらえると考えたのです。

 そもそもコンサルタントの道を選んだのも政治家をめざすためです。「政治とは何か」といえばそれは「問題解決」です。年金をどうするか、社会保障をどうするか、安全保障をどうするか、そして問題の本質は何か。そこに皆が納得する解決策を講じていくのが政治だとしたら、企業相手にコンサルティングを行い、成果が出せていた自分は、議員になっても通用するのではないかと考えました。行政の問題点を指摘すれば、当然役所から反論されます。そのとき「あなたは何を根拠にそれを言うのか」と問われた場合、相手に面と向かって言うことはないにしても、「今でも私は民間企業に報酬をいただいてコンサルタントの仕事している!」「私の問題提起にお金を払ってくれた実績が過去何十社もある!」と自信を持てることが、政治家として迷わず判断・行動できる根拠になっています。

──コンサルタントをされるのも政治家を考えてのことなのですね。

越川 政治家とコンサルタントの二刀流でやることこそ価値がある。それをよりどころにやってきました。

 議員報酬だけで食べている市議会議員もいますが、実は市議会議員は、つき合いも含め経費はすべて自腹のため、精力的に活動すればするほどお金が必要になります。その中でも、無所属の地方議員は政党交付金が支給されないため大変です。議員の家柄に生まれた方や地元の名家出身の方はいいけれど、私のような何も寄って立つところのない議員は、自腹の経費のみならず、4年に1回の選挙費用も自分で賄わなければなりません。過度にお金の心配をすることなく活動するためには、議員報酬以外の収入も必要です。寄付や献金に頼るのではなく、市議会議員ではない仕事できちんと稼げて、お金についても心配しないでいられるからこそ、真っ直ぐに政治活動ができるのです。

──コンサルタントは政治活動をしていく上でのひとつの柱になっているのですね。

越川 私の中では、ひとたび現場を離れたら通用しないという危機感があります。今まさにオンゴーイングで通用することが大事で、また、多くの市民の方々と同じように都内に通勤して働くことが、市民の気持ちの理解にもつながると思っています。だから議員活動がない日はほぼ毎日都内へ満員電車で通勤します。企業の情報セキュリティ対策はどうなっているのか、ワーク・ライフ・バランスやダイバーシティについてはどうなっているのかなど、世の中の動きをインプットするためにも、市議会議員以外の仕事を持つことは大切だと考えています。

──USCPAやコンサルタントの経験はどのように議員活動に活かされていますか。

越川 内部監査の仕事を通じて、法律やガイドライン、会社の規則など、寄って立つところを明確にし、エビデンスに基づいて意見表明することはクセとして身についています。検出事項と改善提案、その実現可能性について現場の人たちと一度議論をして、事実関係も含めて誤りがないか何度も検証してから報告書を仕上げます。それは議会に臨むスタンスも同じで、まずは事実関係を精査してから質問を練り上げます。問題の指摘や改善提案についても、それが世間とずれていないと自分で確証を持って言える。それはやはり日々仕事を通して、普通の市民感覚やサラリーマンの一般常識、企業の感覚を身につけ、それが社会のみんなが考える常識だとわかるから言えることなのです。

議員にしがみつかない

──市議会議員として3期目を迎えました。今後についてはどのようにお考えですか。

越川 1期目に当選して4年間きちんと活動したら、2期目の選挙で票数と順位が上がり、成果を出すために一生懸命やっているうちに3期目まできてしまった感じです。

 議員になる前は市議会から県議会、衆議院という道を考えていましたが、これは極めて自分本位な考えで、「市議やります」と言っておきながら、受かった瞬間から「いや、俺は次県議に行く」というのはとても不誠実だと思うようになりました。私本人のキャリアアップとしてはいいかもしれないけれど、やはりきちんと仕事をしたいという拘りがありますね。
この意味で、キャリアアップはあと回しでいいので、任期中は市議会議員としてしっかりと「市川市に越川あり」と言われるような実績を積み上げていきたいですね。そこから先は、無所属なので選挙資金はすべて自腹ですから、供託金も衆議院の場合300万円が必要で、その他にも選挙費用としては事務所に車、スタッフ…と考えると、なかなか厳しい現実が待っています(苦笑)。

 ですから今後もう一回人生を賭けてみたいと思えるような新党でも出現したら衆議院挑戦もありかなとは思いますが、今のところは、市議会議員と経営コンサルタントの二刀流のスタイルを追求していくことにやりがいを感じています。議員報酬以上の仕事をしていることにも誇りを持っていて、「自分は報酬以上の仕事をしている」と密かに思うのは楽しいですね。社会的意義もないのにただ国会議員バッジを付けるよりも、今の自分のほうがやりたい政治家像に近い気がしています。

──今後も二刀流を続けていかれますか。

越川 もちろんです。ただ、コンサルタントはどんなにがんばっても60歳ぐらいまでしかできません。一方で政治家は60歳を過ぎてからが勝負のところもあります。だから現時点でどちらかを辞めなければならないのであれば、もしかしたら市議会議員を辞めてしまうかもしれません。それに、「政治家でしか食べていけない者が政治家をすべきではない!」「議員報酬は政治活動の原資であって、生活の糧にしてはならない!」との思いも強く持っています。もちろん、これからも両立が可能であるのならば、コンサルタントと市議会議員の二刀流を極めたいですし、市議としてのキャリアを活かして市長転身などを考えてもいいわけです。経済的な現実を見据えながら「生活の糧を得るために議員にしがみつくことはしない!」という気概と覚悟を持って、後悔しない判断をしていきたいですね。

──資格試験に向けて勉強中の方々にアドバイスをお願いします。

越川 資格の勉強は、ぜひ仕事を続けながらがんばってほしい。知識のある人や資格を持っている人はたくさんいますが、働きながらの苦労は人それぞれで、その経験にこそ価値があると思います。働きながら資格を取ることでマネジメント能力も磨かれます。合否にとらわれずに勉強を続けて、何度失敗しても毎回受験して、最終的に受かればいい。「毎回、受かるまでお金を払い続けるのだから、どうせなら早く受かろう(笑)」とマインドセットすることが大事です。がんばってください。

[TACNEWS 2019年12月号|特集]

合わせて読みたい

おススメ記事

「TACNEWS」に掲載の記事内容・情報は執筆時点のものです。